樺太の歴史

1930年代の樺太・豊原市と樺太アイヌ/wikipediaより引用

ゴールデンカムイ 明治・大正・昭和

ロシアから圧迫され続けた樺太の歴史 いつから日本じゃなくなった?

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樺太での生活

いざ北海道へ!

出立した会津藩士たちは戦時体制ということで、食事は一汁一菜で、飲酒も禁止されておりました。

会津から津軽半島最北端までで、実に65日もかかる船旅です。

ようやく津軽海峡を渡り、3月29日(新暦4月24日)に松前へ到着。

そこから更に約3週間後の4月19日(新暦5月14日)、樺太に到着したのでした。

クシュンコタンはロシアによって破壊されていて、焼け跡しか残っていません。

会津藩士はまず住む場所をつくり始めました。

季節は夏と思いたいことですが、5月15日(新暦6月8日)には依然として氷が張っており、時折、雪も降ったというのですから、恐ろしい話です。

大泊(現コルサコフ)6月の天気を見てみますと……。

最高気温:25.1
平均気温:15.6
日平均気温:12.1
平均最低気温:9.0
最低気温記録:−0.5

気温の上昇している現代ですら、このような状況です。

氷が張るのも、積雪も、十分にありえる状況でした。

 


海産物の美味なることよ

会津藩士たちは、未知の土地でも武術の鍛錬や演習を行い、その見事さで幕府役人を驚かせました。

嬉しかったのは食事。なにせ北の豊富な海だけに海産物は事欠きません。

山のように押し寄せる鰊、鮭、鱒。

山に囲まれ、海産物の味を知らなかった会津藩士たちにとって、北国の味覚はたまらないものがあったことでしょう。

鯨が潮を吹いている姿を眺めたり、兎を狩ったり、大自然をエンジョイする日もあったとか。

樺太アイヌともすっかり仲良くなっており、彼らは帰り際、会津藩士たちを走って追いかけてきたそうです。

ただし、野菜は不足がちでした。

持参した胡椒、唐辛子、干し生姜を食べ、処方した薬を飲んでしのぐほかありませんでした。

ロシアとの交戦もありません。

結局なにもないまま、秋には帰ることになったのですが、問題は海路ということでして。台風に遭遇し、あわや溺死で全滅になりそうな危険性すらありました。

11月、会津へ戻った藩士たちは、褒美をもらい、ねぎらいの料理を城内で食べることも許されます。

このときかかった費用は2万両。

うち1万両は幕府負担とはいえ、財政難の会津藩にとっては手痛い出費でした。

そしてその後も会津藩は、幕府のために戦い続けます。

江戸湾警備、房総警備、京都守護職、そして会津戦争……。

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自分たちこそが東北の雄藩として、幕府のために戦いたい。

そんなプライドのために、会津藩は幕末の情勢において、血みどろの道を歩むことになるのでした。

会津藩や仙台藩は、東北地方の山国で海もなく、薩摩藩のように外圧への危機感が薄かった――そんな風に言われがちですが、北方からの脅威を最も感じており、必ずしもそうとは言いきれない気がします。

 


見捨てられた蝦夷地

幕末の動乱においては京都守護職に注力した会津藩。

蝦夷には会津藩の代官が置かれていました。秀才と名高かった秋月悌次郎が、一時期この役職に就いています。

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そして幕府も、蝦夷地探索を完全に諦めたわけではなく、弘化元年(1844年)には松浦武四郎が調査へ。

「北海道」という名称は、この松浦が考えたとされています。

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慶応元年(1865年)には、幕命を受けていた岡本堅輔・西村伝九郎らが、日本人初の樺太一周探険に成功しています。

しかし、局面が戊辰戦争へと向かうと、蝦夷地どころではありません。

スッカリがらあきになってしまい、会津藩と庄内藩は、追い詰められる最中、蝦夷地の提供を条件にプロイセンとの連携を目指すことになります。

まぁ、これを根拠に「いくら困ったからといって国土を売り渡そうとした逆賊め!」なんて意見もありますが。

そもそも戊辰戦争という内戦が発生した結果、蝦夷地や樺太ががらあきになって、様々な問題が発生したのだということは認識せねばならない問題でしょう。

そして、その戦争は誰が始めたのか、という話でもあります。

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幕末の動乱の最中、日本人たちは国を思い一致団結し、欧米列強の侵略から守った――という見方は、北に目を向ければ、決して真実とは言い切れないでしょう。

 

「中央」は北の大地に冷淡だった

幕末から明治にかけて発生した動乱――戊辰戦争と西南戦争という内戦に目が向けられる中、樺太はロシアの圧迫を受け続けました。

明治3年(1870年)には、ロシア船がクシュンコタンを襲撃。

漁場と先住民の墳墓が破壊される事件が起きています。

この事件を受けて、当時の開拓使判官・岡本堅輔は、強く抗議するよう中央政府に訴えました。

岡本は日本人で初めて樺太を一周した人物であり、樺太への思いは人一倍あった人物です。ロシアの暴虐に強い憤りを感じていたことでしょう。

しかし、中央政府の決定は無情なものでした。

同年外務大丞・丸山作楽が失脚した際、岡本堅輔も職を解かれてしまうのです。

岡本は晩年になっても、話が樺太のことに及ぶと、酒をあおりながら、涙を流して悔しがっていたそうです。

よほど無念だったのでしょう。

明治2年(1869年)には、前述の松浦武四郎が明治政府成立以降、開拓判官としてつとめていましたが、中央政府があまりにアイヌの境遇に無関心であることに憤り、地位を返上しています。

このように、幕府時代から北海道に目を向け、アイヌの人々の暮らしを考えていた、そして優秀な人々は、明治新政府のやり方に失望して職を辞すことが相次いだのです。

北方警備を担い、ロシアの脅威を実感してきた会津藩や仙台藩の人々は、新政府では発言権を封じられています。

こうして明治政府の目は、首都東京や日本の西南に向けられ、東北から北海道、そして樺太はおざなりにされたとしか言いようのない状況でした。

そして彼らのポストを埋めたのは、アイヌや開拓民の境遇に無関心な人々でした。

アイヌや屯田兵の苦境は、こうした“無関心”から生まれたのです。

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