こちらは4ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【柴五郎】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
陸軍人としての栄誉
こののち、柴五郎は陸軍人としての栄誉を邁進します。
明治35年(1902年)陸軍大佐
明治37年(1904年)野戦砲兵第十五連隊長として日露戦争出征
明治39年(1906年)功二級金鵄勲章を受章
明治40年(1907年)陸軍少将(山川浩以来、会津藩出身者の出世はここまでとされておりました)
大正2年(1913年)陸軍中将
大正6年(1917年)勲一等瑞宝章受章
大正8年(1919年)陸軍大将
ついに会津出身の陸軍大将が誕生しました。
明治45年(1912年)に大将となった、海軍の出羽重遠と並ぶ出世です。
そして昭和5年(1930年)に退役。
長い軍人としての人生が終わります。
明治以来、陸軍は長州、海軍は薩摩の派閥が強いとされておりました。その流れも変わり、柴五郎や出羽重遠のような将が現れます。
軍事だけではなく、大正7年(1918年)には岩手出身の原敬が総理大臣に就任しました。
戊辰戦争で痛めつけられてきた東北が、やっと日本の中枢に現れるようになってきたのです。
歴史の見直しも進みました。
五郎の恩人である山川浩と健次郎はじめ、会津人の記録や著述により、名誉回復のなされてゆくのです。
五郎が退役する2年前の昭和3年(1928年)、松平容保の孫が秩父宮に嫁ぎました。
雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひせつこ)の存在は、会津人にとって「朝敵の時代が終わった」と印象付けるものでした。
二度目の敗戦
しかし、歴史の流れは残酷でした。
大日本帝国そのものが、陰りゆく流れと一致していたのです。
五郎が退役したのちの柴家の運命も、平穏とは言えません。
養嗣子の死去、孫・由一郎が結核で療養する等、不穏な出来事が続いておりました。孫たちの中にも、祖父に先立つものが出てきます。
二・二六事件のあと、もう老齢のを超えた五郎は、世の流れを不安感を持って眺めるしかない状況に陥ります。
二・二六事件と五・一五事件の違いまとめ! それぞれの実行犯と結果は?
続きを見る
そして昭和16年(1941年)、太平洋戦争の開戦――。
悪化する戦局の中、彼はひっそりと戦死者を弔うことしかできません。
昭和20年(1945年)8月15日。
柴家の面々もラジオ放送にじっと耳を傾けていました。
五郎は聞き取れず、娘のみつに尋ねます。
「日本は、敗けたらしゅうございます……」
五郎にとって、人生二度目の敗戦でした。
彼は目を閉じ、うなずきました。周囲の目からは、冷静に見えました。
しかし、この老人は悲憤激昂しておりました。
どうして、こんな無残な敗戦を見ないうちに、命を終えなかったのだろうか?
会津戦争で死んでしまった家族の分まで生きるように、ここまで過ごしてきた。
そう思いつつ、彼は日記を焼き捨てます。
自今は、好適の死期に遭わんため、残生中の処置、準備なさんとす
皇国のまたの栄(さかえ)を疑わず
今日のなげきはさもあらばあれ
そして9月15日、遺書を認めます。
陸軍中最古参長老として、この国が踏みにじられる様を見ることはできない。そんな思いがそこにはありました。
夜、皆が寝静まったあと。相州綱弘の脇差を持ち、彼は宮城に頭を下げるのです。
天皇陛下のこと。
そして国家の復興を願い、腹を切りました。
が、老齢であったためか。
四時間切腹をしたものの、数センチの傷をつけることしかできなかったのです。
刃は脂で滑ってしまう。心臓を狙うものの、うまくいきません。夜が明ける中、彼は失敗を悟り止血し、手当てを受けました。
そのあと一進一退を繰り返しつつ、その歳の12月、息を引き取ります。
享年85。
柴五郎の墓は、会津若松市の恵倫寺にあります。
幼くして会津戦争で家族を失い、最古参の陸軍人として歩んだ柴五郎。
「コロネル・シバ」としてその名を残し、世界的な名声を得ました。山川浩の少将を超え、大将にまで昇進を遂げたのです。
しかし最晩年、彼は二度目の敗戦を目撃し、自殺をはかりました。
自分が一心不乱に歩んできた道が、どこで間違ってしまったのか?
追いつけ追い越せ、脱亜入欧、列強入りを目指したものの、それは表層的なものに過ぎなかったのか。
そのことを知り、死を選んだ彼の思いは、明治から太平洋戦争までのこの国の歴史を示すものと思えます。
『ジンジャー・ツリー』に描かれるような、高潔な姿――それは日本人の誇り。
そう語ることはできます。
柴の名を、誇りある日本人としてあげることは、しばしば見られます。
けれども、彼が幼少期に見た惨禍。
絶望の中で死を選んだ最期。
そのことも、忘れてはならないことだと思うのです。
あわせて読みたい関連記事
会津藩主・松平容保の最期は悲劇だった? 天皇と藩祖に捧げた生涯
続きを見る
なぜ会津は長州を憎んだのか~会津戦争に敗れた若松城と藩士達が見た地獄とは?
続きを見る
会津戦争の遺恨『遺体埋葬論争』に終止符を~亡骸埋葬は本当に禁じられたのか
続きを見る
斗南藩の生き地獄~元会津藩士が追いやられた御家復興という名の“流刑”とは
続きを見る
幕末で日本一の秀才だった秋月悌次郎~会津の頭脳をつなぐ老賢者とは
続きを見る
敵に囲まれた城を獅子舞で突破!会津藩士・山川浩の戦術が無双だ!
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
石光真人『ある明治人の記録 改版 - 会津人柴五郎の遺書 (中公新書)』(→amazon)
村上兵衛『守城の人 明治人 柴五郎大将の生涯』(→amazon)
『国史大辞典』
他