柴五郎

柴五郎/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

幕末会津の敗残少年から陸軍大将となった柴五郎~苦難の生涯85年を振り返る

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柴五郎
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陸軍人としての栄誉

こののち、柴五郎は陸軍人としての栄誉を邁進します。

明治35年(1902年)陸軍大佐

明治37年(1904年)野戦砲兵第十五連隊長として日露戦争出征

明治39年(1906年)功二級金鵄勲章を受章

明治40年(1907年)陸軍少将(山川浩以来、会津藩出身者の出世はここまでとされておりました)

大正2年(1913年)陸軍中将

大正6年(1917年)勲一等瑞宝章受章

大正8年(1919年)陸軍大将

ついに会津出身の陸軍大将が誕生しました。

明治45年(1912年)に大将となった、海軍の出羽重遠と並ぶ出世です。

出羽重遠/wikipediaより引用

そして昭和5年(1930年)に退役。

長い軍人としての人生が終わります。

明治以来、陸軍は長州、海軍は薩摩の派閥が強いとされておりました。その流れも変わり、柴五郎や出羽重遠のような将が現れます。

軍事だけではなく、大正7年(1918年)には岩手出身の原敬が総理大臣に就任しました。

戊辰戦争で痛めつけられてきた東北が、やっと日本の中枢に現れるようになってきたのです。

歴史の見直しも進みました。

五郎の恩人である山川浩と健次郎はじめ、会津人の記録や著述により、名誉回復のなされてゆくのです。

五郎が退役する2年前の昭和3年(1928年)、松平容保の孫が秩父宮に嫁ぎました。

雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひせつこ)の存在は、会津人にとって「朝敵の時代が終わった」と印象付けるものでした。

秩父宮と雍仁親王妃勢津子夫妻の婚礼/wikipediaより引用

 

二度目の敗戦

しかし、歴史の流れは残酷でした。

大日本帝国そのものが、陰りゆく流れと一致していたのです。

五郎が退役したのちの柴家の運命も、平穏とは言えません。

養嗣子の死去、孫・由一郎が結核で療養する等、不穏な出来事が続いておりました。孫たちの中にも、祖父に先立つものが出てきます。

二・二六事件のあと、もう老齢のを超えた五郎は、世の流れを不安感を持って眺めるしかない状況に陥ります。

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そして昭和16年(1941年)、太平洋戦争の開戦――。

悪化する戦局の中、彼はひっそりと戦死者を弔うことしかできません。

昭和20年(1945年)8月15日。

柴家の面々もラジオ放送にじっと耳を傾けていました。

五郎は聞き取れず、娘のみつに尋ねます。

「日本は、敗けたらしゅうございます……」

五郎にとって、人生二度目の敗戦でした。

彼は目を閉じ、うなずきました。周囲の目からは、冷静に見えました。

しかし、この老人は悲憤激昂しておりました。

どうして、こんな無残な敗戦を見ないうちに、命を終えなかったのだろうか?

会津戦争で死んでしまった家族の分まで生きるように、ここまで過ごしてきた。

そう思いつつ、彼は日記を焼き捨てます。

自今は、好適の死期に遭わんため、残生中の処置、準備なさんとす

皇国のまたの栄(さかえ)を疑わず

今日のなげきはさもあらばあれ

そして9月15日、遺書をしたためます。

陸軍中最古参長老として、この国が踏みにじられる様を見ることはできない。そんな思いがそこにはありました。

夜、皆が寝静まったあと。相州綱弘の脇差を持ち、彼は宮城に頭を下げるのです。

天皇陛下のこと。

そして国家の復興を願い、腹を切りました。

が、老齢であったためか。

四時間切腹をしたものの、数センチの傷をつけることしかできなかったのです。

刃は脂で滑ってしまう。心臓を狙うものの、うまくいきません。夜が明ける中、彼は失敗を悟り止血し、手当てを受けました。

そのあと一進一退を繰り返しつつ、その歳の12月、息を引き取ります。

享年85。

柴五郎の墓は、会津若松市の恵倫寺にあります。

幼くして会津戦争で家族を失い、最古参の陸軍人として歩んだ柴五郎。

「コロネル・シバ」としてその名を残し、世界的な名声を得ました。山川浩の少将を超え、大将にまで昇進を遂げたのです。

しかし最晩年、彼は二度目の敗戦を目撃し、自殺をはかりました。

自分が一心不乱に歩んできた道が、どこで間違ってしまったのか?

追いつけ追い越せ、脱亜入欧、列強入りを目指したものの、それは表層的なものに過ぎなかったのか。

そのことを知り、死を選んだ彼の思いは、明治から太平洋戦争までのこの国の歴史を示すものと思えます。

『ジンジャー・ツリー』に描かれるような、高潔な姿――それは日本人の誇り。

そう語ることはできます。

柴の名を、誇りある日本人としてあげることは、しばしば見られます。

けれども、彼が幼少期に見た惨禍。

絶望の中で死を選んだ最期。

そのことも、忘れてはならないことだと思うのです。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
石光真人『ある明治人の記録 改版 - 会津人柴五郎の遺書 (中公新書)』(→amazon
村上兵衛『守城の人 明治人 柴五郎大将の生涯』(→amazon
『国史大辞典』

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