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【柴五郎】
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いざ上京
明治4年(1874年)、五郎は青森県給仕として出仕――。
そんな中、なんとかして上京し、学びたいと友人と考え始め、翌年、大蔵省の役人に「東京で学びたい」と訴えることにしました。
五郎はまだ十代前半ながら、冷たい目を明治政府に注いでいたことが窺えます。
県庁に出入りする役人たちとその妾が、花見だ芝居だと浮かれ騒ぎ、豪華な着物や袴を買い漁り、飲み食いしていたと記憶しているのです。
飢餓に苦しむ五郎たちにとって、彼らの腐敗は残酷なまでの格差でした。
とはいえ、非情なことばかりでもありません。
訴えを聞いた青森県大参次・野田豁通(のだひろみち)は五郎に、東京にツテはあるのか?と尋ねます。
五郎は、兄・四郎や秋月悌次郎らの名前をあげ、必死で食らいつきました。
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訴えはようやく認められ、明治5年(1875年)、五郎は上京を果たします。
その後、ある会津の重要人物も上京します。
山川浩です。
斗南藩を移住先と決めたため、幾度となく殺害予告すらされた山川。
彼は砂鉄からの製鉄、缶詰製造といった奮闘をするものの、廃藩置県で無意味となりました。
上京し、文明開花にふれて、呆然とする五郎。
彼は山川家を頼りにするよう案内され、そこを訪れたのです。
山川邸には既に旧会津藩士が入り浸っていたものの、そこは断れません。山川家は困窮を見逃せないのです。
五郎を迎え入れ、一家の母・えんと常盤は、捨松の残していった着物を 仕立て直して彼に着せたのでした。
後に大山捨松となる山川の妹は、アメリカ留学中でした。
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薄紫に桃色で、どう見ても女物ではあります。どう見てもおかしいとはいえ、そのぬくもりとやさしさが五郎を包み込みます。
会津戦争以来、忘れていた安らぎがあったのでしょう。五郎はそのことを覚えています。
彼はしばらく、女物の着物に袴で過ごしたのでした。
陸軍幼年少年隊への入学を果たす
働きながら生きる五郎。
そんな彼に、陸軍会計一等軍吏に就任した野田豁通がある話を持ってきました。
「陸軍幼年少年隊(のちの陸軍幼年学校)の募集試験を受けてみないか? 合格すれば陸軍士官だ。武士の子なれば、不服はないだろう」
五郎はこれだと食らいつき、必死で受験勉強に励みます。山川家にこのことを告げると、二つ返事で承諾されたのでした。
しかし山川家も生活が苦しいのか。
この間に五郎が貯めていた13円50銭を借りております。
明治6年(1875年)、五郎は何度も何度も兵学寮を訪れ、合否を気にしていました。そして3月末、ついに合格だと結果がわかったのです。
雲の上を踏むような喜びでした。これを聞いた山川家も、同じくらい喜びました。
浩は素早く行動します。
浩は五郎から借りた金を持ち、6~7円を使って軍服一式を揃えました。
幕末にロシアを訪れ、洋式軍服を着ていた浩です。ピンとくるものがあったのでしょう。山川家の皆は嬉し涙をこぼしていました。
野田豁通も、大喜びです。
「これでよか、これでよか」
よか、よか……そう繰り返す野田を、山川と並ぶ大恩人として、五郎は記憶しています。
陸軍人の道
陸軍人の道を歩み始めた五郎。
当時はナポレオン戦争の影響もあって、フランス式でした。
会津訛りのためかフランス語の発音は苦手であり、この科目はいつも悪い方でした。
辛いのはフランス語くらいでした。
食事の洋食。学友は まずい、不自由だとこぼしますが、五郎にとっては天国です。斗南の飢餓と比較すれば、それも当然でしょう。
夏休みは、どこにも行き場所がありません。
野田豁通の家で下僕として働いていたところ、ここに出入りするある書生に呼び出されました。
「きみは陸軍人になるために、学校に通っているのだろう。国を守る志がありながら、どうして下僕の真似をする? ここから出て行きなさい」
そう諭され、彼はその通りだと思い、有坂成章の家に下宿することにしたのでした。
五郎は、激動の陸軍初期を味わっていました。
級友よりも貧しく粗末で、学内では薩長土肥が目立つ構造です。
普仏戦争を受け、フランス式からプロイセン式に変わる制服と授業。兄・四郎の病。
更には国内各地で、不穏な気配が感じられるようになります。
明治9年(1876年)秋からの不兵士族の反乱。
最後は、明治10年(1877年)の西南戦争でした。
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このときは、兄・四郎が出征してゆきます。
会津武士たちは、これぞ薩摩への雪辱として、堂々と鹿児島を目指していたのでした。彼の恩人・山川浩も大活躍を遂げております。
一期生は、この内戦で30名ほどが戦死を遂げました。
その熱気が伝染したのか。二期生と三期生で乱闘が起こるといった余波もありました。そして、この歳の暮、五郎は特科受験し、優秀な成績で合格します。
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