柴五郎

柴五郎/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

幕末会津の敗残少年から陸軍大将となった柴五郎~苦難の生涯85年を振り返る

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西郷に続く大久保の死とは

明治11年(1878年)には、大久保利通暗殺の報が五郎にも届きました。

西郷と大久保――。

薩摩が生んだ両雄にして「維新三傑」は非業の死を遂げたことになります。

明治維新の際に陰謀を企て、耳目を集めるために会津を血祭りにあげた。いかに国家の柱石といえども、許せるわけもない。

自らの暴走、専横の報いをその命で償った。暴走の結果で、同情する気なぞ沸くはずもない。

非業の最期は当然の帰結だ――。

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それが五郎の思いでした。

若気の至りだからと、このことを反省するはずもない。のちに彼は、そうきっぱりと言い切っています。

とはいえ、彼の陸軍士官学校時代の親友には、薩摩出身の上原勇作もおります。薩摩出身者全員が嫌いというわけではありません。

明治12年(1879年)、五郎は陸軍砲兵少尉となりました。

故郷を血の海に沈めた両雄の死。

そして砲兵少尉任官をもって、五郎の人生には一区切りついたのです。

会津若松落城の折わずか8歳だった少年は、19歳の青年士官となったのでした。

卒業と同時に少尉になれるわけでもなく、優秀であったからこそ。この歳、五郎は11年ぶりに会津に戻り、墓参をしたのでした。

明治15年(1882年)には、父が死去。

兄たちもそれぞれの道を進んでいます。

会津の兄弟は、彼らの道を模索していました。

 


清で偵察の日々から日清戦争へ

士官になってからの五郎は、勉強もそこまで熱心ではなかったようです。

砲兵は工学知識や計算が求められますが、彼はこの手の勉強は苦手でした。

ただし、中国語習得だけは熱を入れていたようです。

語学力が認められたこともあるのでしょう。明治17年(1884年)、陸軍中尉として清国行きを命じられます。

阿片戦争後、辛亥革命の間にある清――。

明治21年(1888年)、大尉に昇進。明治22年(1889年)からは、福州にて特別任務についております。

身分をやつしながら、彼は清の偵察をします。

チフスに罹り苦しめられたこともありました。

満州、朝鮮半島まで偵察しており、明治政府の方針もうかがえるのです。

帰国したのは明治23年(1890年)のこと。陸軍士官学校教官等を経て、明治25年(1892年)には参謀本部に移りました。

そして中村くまゑという女性と結婚しています。

谷干城と同郷の縁者でした。山川浩と谷干城は友人でしたので、そういった関係もあるのでしょう。

翌年には女児が生まれたものの、くまゑは出産後に亡くなってしまいました。享年20。

そんな中、国際情勢は動いてゆきます。

明治27年(1894年)、イギリス公使館附心得後に帰国し少佐、大本営参謀となりました。

そして明治28年(1895年)4月、ついに日清戦争が開戦するのでした。

日清戦争において、清の指揮官がいかに無能であったか。

朝鮮の明成皇后(閔妃)がいかに悪辣であったか。

そういう話は、ここでは詳細を省かせていただきます。日本側の見方による書籍なり、記事は多数あるかと思います。

ともあれ、日清戦争は日本の大勝利でした。

多額の賠償金。

獲得した台湾という領土。

この勝利で、日本は列強の一員となれるという希望を見出したのです。

脱亜入欧――そんな風が吹いていました。

【眠れる獅子】とされてきた清の脆さが露になると、列強はこのパイを巡り目を光らせ始めます。

日本からすれば輝かしい勝利であっても、清、台湾や朝鮮半島からすればどうであったか。

それは考慮せねばならないでしょう。

五郎の兄・四朗は、文才を活かして東海散士の筆名を持つ小説家として活躍しておりました。

代表作の『佳人之奇遇』をはじめ、彼の小説は日本人が当時持っていた夢と合致するような世界観がありました。

脱亜入欧を果たし、西洋人美女とのロマンスを味わう。そんな世界観です。

東海散士こと柴四郎/wikipediaより引用

明治28年(1895年)、四朗は「乙未事変」に、三浦梧楼と深く関与しています。

開化派に心を寄せていた四朗にとって、その実力者であった金玉均暗殺は、許しがたいものでした。

暗殺の糸を引いていたとされる明成皇后(閔妃)を成敗することは、仇討ちでもあったと考えられるのです。

熱血文人である四朗にとって、これは正義であったとも考えられます。

東洋人が改革をし、手を結び西洋人に抵抗する。

そんな理想に燃えていたと思われます。

その正義が、その国の人から理解されたかどうか。そこは分けて考えねばなりません。

 


「義和団の乱」のコロネル・シバ

明治30年代の初頭、五郎はアメリカに赴きました。

現地で陸軍や政治を視察。彼が目にしたアメリカの姿は、中南米に攻撃を仕掛けるものでした。

領土と植民地拡大こそが当時の先進国の姿でした。

明治32年(1899年)陸軍中佐へ。

鍋島みつ(鍋島閑叟の姪・結婚時に花と改名)と再婚しました。そして明治33年(1900年)に清国公使館附となります。

柴五郎/wikipediaより引用

しかし着任後まもなく「義和団の乱」が勃発するのでした。

清末の反乱とは、複数の要素が重なり合います。

・宗教の台頭、武術、そして思想

→中国史における反乱は、しばしば宗教を背景とします。『三国志』幕開けとなる「黄巾の乱」がその典型例でしょう。

中国の場合、武術、思想、宗教の結びつきも無視できません。「義和団」も白蓮教の流れを汲むこうした団体でした。

ブルース・リーのカンフー映画に思想があること。

現在の中国政府による「法輪功」規制にまで関わる流れなのです。

・キリスト教浸透への危機感

→こうした背景は何も中国のみならず、日本でもあることでした。

明治政府はキリスト教を警戒し禁じようとしたものの、反発を受け解禁しています。

中国では「太平天国の乱」が起き、鎮圧されたものの、浸透していました。

キリスト教と西洋の侵食を同一視する流れは当然あり、「義和団」はこうした背景に一致する蜂起なのです。

・侵略への反発

→そしてこれが最大の要因です。当初、西太后が支援を表明した背景にも、阿片戦争、日清戦争により、侵略される清への危機感がありました。

「義和団の乱」前夜、きな臭い状況に陥りつつありました。

ついに事件も起こります。

ドイツ人宣教師の殺害――。

自国民の保護や、自国民を殺傷しかねない危険性の目を摘むことは、うってつけの開戦口実となります。

生麦事件】からの【薩英戦争】を思い出していただければご理解いただけるでしょうか。

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自国公使、宣教師の殺害を受けたドイツは、英仏に遅れじと陸戦隊を続々と上陸。ロシアも続きました。

ロシアは清と自国を結ぶ鉄道「東清鉄道」建設に食指を伸ばしていたのです。背景には1898年(明治29年)「露清条約」もあります。

危機が迫ったら、清を援助するというものでしたが、実際のところ、清の危機に際してロシアが取った手段は、艦隊を派遣し脅すような振る舞いでした。

【義和団の乱】は、こうした西洋諸国の暴虐への反発だったのです。

あまりに無防備であった西洋人やキリスト教徒は、北京に逃げ込みました。

そんな中、11カ国の公使館と8カ国の少数の守備兵がが防衛計画を練る中、五郎は籠城戦で水際だった指揮を見せます。

中国語を身につけ、視察により情報を築き上げた五郎の判断は、優れたもの。

篭城戦こそ、その力を生かせる場になったのです。

装備こそ刀槍であるとはいえ、なにぶん数で勝る。

撃退された義和団の面々は、砲火や殺人を行います。

混乱は続きます。

西太后は、一時「義和団」を支援をし、列強に宣戦布告を仕掛けているほど。

清朝にも開明派はおりました。粛親王・愛新覚羅善耆は、日本の先進的な改革を手本とするべきだと考えていたのです。

彼は協力的でした。

この粛親王府は、防衛の拠点となりました。

ちなみに彼の第14王女は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくらけんし)、川島芳子の名で知られております。

苦しい食糧。

カトリックとプロテスタントの対立。

焦燥。

物資補給の限界……60日間に及ぶ篭城戦は、非常に苦しいものでした。

それでも五郎は持ち前の語学力や情報収集、観察眼を生かし、水際だった指揮でこの篭城戦を乗り切ったのです。

ヴィクトリア女王はじめ、欧米列強から叙勲されるほどの活躍でした。

イギリス、フランス、ロシア、オーストリア、ドイツ、イタリア、ベルギー、スペイン……「コロネル・シバ」の英名は世界に響き渡ったのです。

帰国すると、五郎は羨望と称賛、それと入り交じる嫉妬を感じるのでした。

「北清事変」における日本からは金鵄勲章功三級でした。

中佐としては異例。

参内し、天皇の手から勲章を授けられる名誉を、かつて賊軍の子とされた五郎は噛み締めたのです。

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