第七師団

ゴールデンカムイ13巻/amazonより引用

ゴールデンカムイ 明治・大正・昭和

第七師団はゴールデンカムイでなぜ敵役なのか 屯田兵時代からの過酷な歴史とは

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辛いのは開拓だけではなかった……

開拓だけでも、辛いものがあります。

その上、事訓練までしなければならない。

留守を守る女性たちが、農作業に尽力することになるのも、こうした理由ゆえ。訓練が、非常に辛いものでした。

訓練地は、森林を切り開いた場所になりがちです。

夏季は、アブ、蜂、蚊……と、虫にブンブンとたかられ、それを追い払うこともままならずに訓練です。

冬季は、冬用の分厚い装備。一年中辛いものでした。

問題は訓練だけではありません。

あくまで兵隊ということで、二十四時間プライバシーを監視されるような状況にあります。

ちょっとした休暇でも、結婚でも、いちいち許可を得なければなりません。

鍋のような日用品すら、官給品として検査を受けるのです。

私生活の禁止・束縛事項が多いものでした。

家族の支えだって、厳しいものがあります。

男女共に死別したら、なるべく早く再婚しなければなりません。生きていくためにはそれしかなく、恋愛感情なんて芽生える余裕はない。

厳しい開拓生活で、流産、死産、乳幼児の死亡も多いものでした。

医療機関すら、北海道は後回しだったのです。

東京が、やれ「文明開化」が「鹿鳴館」だと浮かれる頃、北海道では屯田兵とその家族が生き抜くために奮闘をしていたのでした。

 


日露戦争の第七師団将兵たち

ここは第七師団の戦果よりも、アイヌや屯田兵二世で構成されていた、彼らの事情を足元から見ていきたいと思います。

第七師団は、日露戦争でも特別な存在です。

彼らの親である屯田兵たちは、ロシアの南下脅威に備えて訓練をしておりました。

※彼らもこの戦場にいた……

第七師団にとって初の戦争――日露戦争。

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10年前に行われた日清戦争は新設されたばかりで、間に合っておりません。

こうなると負けられないと張り切っていたのか? と思いたいところですが、それだけではない特殊な面がありました。

屯田兵二世以降の世代。

彼らは他の師団よりも厳しい状況にさらされておりました。

男手が不足する中、まだ終わらぬ開拓に挑む留守家族の負担は厳しいものがあります。

本州の他の地域ならば、親族知人を頼れるかもしれません。

しかし、屯田兵は人間関係をリセットするようにして来た者もおります。

頼れる人がないまま、夫や息子が出征してしまう。非情なまでの厳しさがあったのです。

そんな第七師団の兵士たちは、全国的に見ても死傷者が多くなる傾向も見られます。

開拓の道筋がついていたのに、働き盛りの男が消えてしまった……そんな絶望感が漂う村が、北海道にはありました。

やっと戻って来た兵士にせよ、負傷により農作業ができなくなっていたこともあります。

開拓に励む人にとって、それがいかに過酷であったことか。

戦争は、第七師団を深く傷つけました。

 


第七師団のアイヌ兵たち

第七師団には、キロランケのようなアイヌの兵士もおりました。

※キロランケも苦労したことでしょう

勇敢さを示すため――これだからアイヌは駄目だと見下されないために、彼らは戦いぬいたのです。

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受勲者もいたものの、個人の栄誉にとどまり、奮闘は彼らの権利向上にはつながりません。

幼い子供を残し、戦死した夫の報告を聞いて、泣き崩れたアイヌ女性の目撃談もあります。

戸口に立って泣き叫ぶ彼女を見て、近所の人も、兵士たちも、もらい泣きしてしまったのだとか。

アイヌの帰還兵たちが、村長を頼りにしてくることもあったと言います。

彼らは金がなかったのです。

それはなぜでしょうか?

捕虜になっていたからです。

その旅費は、軍隊からは支給されませんでした。身一つでどうにかコタンにたどり着き、金策をする他なかったのでした。

捕虜だからなのか。

彼らがアイヌだからなのか。

あまりに酷い仕打ちです。

敵だけではなく、差別や偏見とも、アイヌの兵士は戦っていたのでした。

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