佐野常民

佐野常民/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

博覧会男と呼ばれた佐野常民~渡欧経験を活かして日本赤十字社を立ち上げる

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昭憲皇太后の後押しをキッカケに

ヨーロッパの王侯貴族が赤十字活動に熱心だったことを受け、日本では昭憲皇太后が率先して赤十字を後押ししています。

昭憲皇太后は政治には口を出しませんでしたが、こういった慈善事業や女性の教育については非常に強く関心を持ち、最大の後援者となりました。

和装の昭憲皇太后/Wikipediaより引用

これをきっかけに他の華族や地方の名士も赤十字に参加するようになり、イメージが向上していきます。

当初、女性の社員が不在だった中、明治二十二年(1889年)には小松宮妃頼子(最後の久留米藩主・有馬頼咸の娘)が参加しました。

常民死後の日露戦争では、華族の女性たちが率先して看護婦(当時の表現ママ)として働くようになっています。

それまではいいところのお嬢さんというと、「女学校で教養と品格を身に着けて、できるだけ若いうちに良い家へ嫁ぐこと」が最重視されていましたので、仰天したご両親も多かったようです。

しかし当人であるお嬢さんたちは「女性である自分は戦えないけれど、父や夫、兄弟たちが戦地に行くのだから、私も何か役に立ちたい」と考えた人が多数派だったとか。

日露戦争を舞台とした小説に、看護婦がよく出てくるのもそうした背景があります。

頼子妃も、夫である小松宮彰仁親王が「ヨーロッパのように、我が国の皇族も率先して軍務に就くべきだ」として自ら実行していたため、その姿にならったものと思われます。

1902年の会員認定書/wikipediaより引用

 


女性に初めて勲章が与えられた

しかし軍の中には「女日照りの軍隊に、看護のためとはいえ女性が来たらいろいろとマズイ」と考えた人も多かった様子。

赤十字でも「エライ人んちのお嬢さんになにかあったらマズイ」というわけで、当時の看護婦の採用条件に「なるべく年増で不細工な者」(意訳)と書いたくらい、慎重に採用していました。

事が起きてから慌てて取り締まるよりはマシなんですかね。

ヨーロッパではナイチンゲール以前、「看護婦は傷の手当と一緒にアレコレしてくれる女性」(※マイルドな表現にしております)とされていたので、それが日本にも伝わって、家族や軍も過剰なまでに心配したのでしょう。

実際にはそうした不祥事は(少なくとも記録上は)なく、日本赤十字の看護婦には、日清戦争後に初めて皇族・外国の要人以外の女性で勲章が与えられるほどの働きをしています。

こうしてみると、日本赤十字は「近代日本で最も早く女性が活躍し、公に認められた組織」といえるかもしれませんね。


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長月 七紀・記

【参考】
黒岩比佐子『明治のお嬢さま (角川選書)』(→amazon
佐野常民/wikipedia

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