貞観八年(866年)8月19日は、藤原良房(よしふさ・804~872年)が摂政(せっしょう)の座についた日です。
なぜこれが歴史的な出来事か?
というと摂政という役職が特別なものであり、皇族以外では初めて良房が就任したからであります。
少し詳しく見て参りましょう。
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藤原良房の妻は仁明天皇の姉
摂政とは本来、王様や天皇が幼少・女性・病弱などの理由で、一人で政治を行うことが難しい場合に任命されます。
日本だけでなく、古代ギリシアや中国、ヨーロッパの王室にも似たような役職が存在。
王様に代わって政治をする重要な仕事ですから、ほとんどの場合、王族や皇族がつくことになっておりました。
しかし藤原良房は名前の通り藤原氏で、天皇家の人間ではありません。
なぜ摂政になることができたのか?
天平元年(729年)、藤原光明子が初めて、皇族以外の皇后になりました。
以来、「天皇の奥さんは藤原氏から!」という習慣が生まれ、藤原良房の妹・順子(のぶこ)も、正妻(后)でこそありませんが、仁明天皇に嫁ぎました。
そして、藤原良房の正妻は源潔姫(みなもとのきよひめ)という天皇家の姫です。
彼女は臣籍に降っていたので源姓ですが、仁明天皇のお姉さんに当たります。
現在でも女性の皇族が結婚すると皇族でなくなる、それに近いですね。
ということは、良房と仁明天皇は、二重の意味(妹の夫、妻の弟)で「義兄弟」となったのです。
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父・冬嗣の影響力も大きかった
これには彼のお父さんである藤原冬嗣(ふゆつぐ)の影響力も大きかったです。
仁明天皇の父・嵯峨天皇の重臣として活躍した人だったので、良房も信頼されていたという理由もあります。お父さんの関係が引き継がれたのですね。
ちょうど院政(退位した天皇が政治の実権を握ること)が定着しつつあった時代。
「それ、退位した意味あるの?」とかツッコんではいけません。
この時代は上皇(退位した天皇)や法皇(出家した上皇)は、天皇の後見役でした。
会社の創業者が息子に社長を譲りながら、自分も「代表取締役会長」に居座り、秘書も個室も会社のベンツも、そして権限も握ったままというようなものです。
なので、嵯峨上皇が「良房に仕事を手伝ってもらえばいいだろう」と言えば仁明天皇も「わかりました」と言わざるを得ません。
大事件、勃発! 応天門に放火
その後、仁明天皇は急死し、その息子の文徳天皇が即位すると、良房は強引に、生後9か月の文徳の息子(清和天皇)を皇太子に即位させます。
第四皇子でしたし、乳児を皇太子というのはこれまでにないことでした。
天安2年(858年)に文徳天皇が崩御すると、「清和天皇は子どもすぎるから」と、ここで一度、事実上の摂政となります。
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しかし、まだこのときは常識が通じたのか、清和天皇が元服(成人)したあとはちゃんと摂政を返上しました。
ところが866年に京の大内裏(天皇が生活していた場所)の応天門が何者かによって放火されるという大事件が起きます。
【応天門の変】と呼ばれる一大事ですね。
放火だけでも犯罪ですが、場所が天皇のすぐそばだったため大問題になりました。
犯人は誰なのか?
当初、伴善男(とものよしお)という良房のライバルが「左大臣の源信(みなもとのまこと)が怪しいですよ!」と訴え出ました。
源信と、良房の正妻・源潔姫は異母兄弟です。
そこで良房は「俺の兄弟が悪いわけもない」と天皇に進言して訴えを下げさせます。
その後、良房がやったことがまたエゲツなかった。
逆に「アナタと息子さんが応天門に放火するのを見たって人がいるんですけどー?」と伴善男を訴えたのです。
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