こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【望月の歌】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
九条、一条、二条……と地名を名乗っていく
藤原氏という家自体も、そのまま一枚岩ではいられませんでした。
道長の時代から100年ほど後に平家が台頭し、かつて道長が娘を通して皇室にやったことを、今度は平家にやり返されるような形で勢力を弱めていったのです。
一応、藤原氏も、何とか権勢を取り戻そうと頑張ったのですが、さすがに道長ほどの人物は出てきませんでした。
皇室や、他の公家にとってはよかったかもしれませんね。
そんなドタバタの間で藤原氏の血筋も分かれていき、やがて住まいのあった場所の名を取って「九条」「二条」「一条」という別の名字を名乗るようになっていきます。
この辺も、日本史の要所要所でお馴染みの名前ですね。
特に有名なところだと、大正天皇の皇后・貞明皇后は九条家の出身です。
-
貞明皇后(大正天皇の皇后)と皇室を支えた近代皇后たちの功績とは
続きを見る
「九条の黒姫様」と呼ばれるほど闊達だった方が道長の子孫にあたるというのは、ちょっと意外な感じもしますね。
全国へ散らばった藤原氏の名残り
また、武家の中にも藤原氏の末裔の家や遠い親戚にあたる家があります。
-
奥州藤原氏は義経の逃亡を歓迎していた?『奥州藤原氏と平泉』書評
続きを見る
-
奥州の藤原泰衡は頼朝に騙された愚将なのか? 最後は家臣に裏切られ
続きを見る
-
史実の源義経はどんな生涯を送り最期を迎えた?鎌倉殿の13人菅田将暉
続きを見る
いつ頃奥州へ行ったのかはっきりしないものの、京の藤原氏から「よくわからないけど、お前んちは親戚だと思ってるから」(※イメージです)という扱いを受けていたことがわかっています。
他には「扇の的」で有名な那須与一の那須家、家康の次男・結城秀康が養子入りした結城家、東北武家の名門・伊達家などが藤原氏の末裔を名乗りました。
ホントかどうかアヤシイところもありますが。
-
屋島の戦いで頼朝が平家に王手!那須与一扇の的は物語 鎌倉殿の13人
続きを見る
-
家康の次男・結城秀康が不運にも将軍になれなかった理由とその生涯
続きを見る
-
伊達政宗の派手な逸話はどこまで本当か?史実の生涯70年を検証まとめ
続きを見る
また、日本人に多い名字ランキングベスト10に入る「斉藤」も、藤原氏に始まるといわれています。
といっても、ほとんどの庶民は明治時代に名字を使うようになっていますから、これまた血が続いているかどうかは断言できませんが。
というわけで「藤原」のまま続いたわけではないのですが、血筋は今も続いているといって過言ではないでしょう。
確実に血が残っている有名どころだと、島津家絡みで度々登場する近衛家や、明治維新以降も京都に住んでいる冷泉家などがあります。
表舞台からは姿を消したものの、確実に子孫が繁栄しているという意味でみれば、道長の世が今も続いていると……。
あわせて読みたい関連記事
-
実は出世の見込みなかった藤原道長の生涯 なぜ最強の権力者に?
続きを見る
-
日本一の権力者その跡継ぎ 藤原頼通(道長の長男)はどんな人だった
続きを見る
-
藤原彰子(道長の娘)日本で最も権力を有した男の娘は幸せだったか
続きを見る
-
貞明皇后(大正天皇の皇后)と皇室を支えた近代皇后たちの功績とは
続きを見る
-
奥州藤原氏は義経の逃亡を歓迎していた?『奥州藤原氏と平泉』書評
続きを見る
-
奥州の藤原泰衡は頼朝に騙された愚将なのか? 最後は家臣に裏切られ
続きを見る
-
史実の源義経はどんな生涯を送り最期を迎えた?鎌倉殿の13人菅田将暉
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
朧谷寿『藤原氏千年 (講談社現代新書)』(→amazon)
藤原妍子/wikipedia
藤原威子/wikipedia
藤原北家/wikipedia