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【藤原基経】
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あれ? 源姓は天皇になれ……ま~す♪
しかし即位して3年後。
光孝天皇が危篤となると、後継問題が浮上します。
そこで、いよいよ件の甥の登場と思いますよね?
違った。
甥とは、基経の大嫌いな妹・高子の息子だったのです。
そこで「アイツは無し!」と突っぱね、光孝天皇の第七皇子である源定省(みなもとのさだみ)を後継に推薦してしまいます。
光孝天皇にとっては、寝耳に水の展開だったでしょう。
第七皇子の源定省とは、自らが天皇にしたかった息子です。喜びのあまり天皇が藤原基経の手を取ったという逸話も納得ができます。
って、ここで少し違和感を感じませんか?
源氏姓の源定省がなぜ天皇に?
源融に対しては「一度、姓を貰ったら、もう天皇にはなれない」と言ってたよね? あの決まりはどうしたの?
もはや基経が法律でした……。
かくして源定省は天皇の臨終間際に親王に復位し、東宮になった日に天皇が崩御すると、次代の宇多天皇となったのです。
宇多天皇は臣籍降下しながら即位した唯一の天皇~なぜそんな事態を迎えた?
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阿衡だから、ワイ、仕事はしまへん
さて藤原基経のおかげで天皇になれた宇多天皇。
父親と同じく「基経に政治委任しちゃうよ」宣言をします。
と、ここで新たな問題が起きます。
宇多天皇は詔の草起を左大弁・橘広相(たちばなのひろみ)にさせたのですか、橘氏の活躍を快く思わなかった基経が、詔の中の
【阿衡(あこう)】
という表現に噛みついたのです。
「阿衡ってば名ばかりの名誉職じゃん! あっ、そう。ワイのことを軽んじているワケね。だったら仕事しない、バイバイキ~ン」
そんな風に難癖つけて、仕事を完全サボタージュ。
宇多天皇が何度「そういう意味じゃない!」と取り繕っても意に介さず、ついに橘広相は罷免。
「私が間違っていました」という詔を天皇に出させるに至りました。
基経は更に「広相を流罪にどう?」とも主張していますが、さすがにそれはアカン!とした菅原道真が間に入り事件は収束します。
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この出来事を【阿衡事件(あこうじけん)】と言います。
意義としては、
【天皇よりも藤原氏が権力を持っていたことを世に知らしめた】
となりますね。
宇多天皇はメチャメチャ悔しかったようで、基経亡き後、藤原外し計画を行います。
やっぱり基経はやり過ぎでしたね。
悪人度 ★★☆☆☆
影響力(権力)★★★★★
妹嫌い度 ★★★★★
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文/馬渕まり(忍者とメガネをこよなく愛する歴女医)
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【参考】
藤原基経・藤原良房・応天門の変・伴大納言絵詞
国史大辞典
wikipedia