大河ドラマ『光る君へ』において、なんだか陰のある女性・源明子(瀧内公美さん)。
第12回放送で彼女の恐ろしい本心が明かされました。
「藤原兼家を呪詛してやる……」
兄の源俊賢は「藤原と仲良くやっていこーぜー!」というスタンスなのに、妹である彼女は「コノウラミハラサデオクベキカ……」とばかりに険しい表情を浮かべている。
あれは一体なにごとなのか?
というと、実は彼女の一族は、藤原兼家らの藤原北家により失脚させられていました。
『光る君へ』の世界からは、ほんの少し前の時代――安和二年(969年)に起きた【安和の変】がその舞台。
源明子の父である源高明(たかあきら)が左遷させられたのです。
果たしてそれはどんな事件だったのか。
源高明の人となりや立場を踏まえて、事件を振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
正二位・左大臣の源高明
源高明は延喜十四年(914年)生まれ。
父は醍醐天皇で、7歳のときに源姓を賜って臣籍となりました。
臣籍に下ったとはいえ皇子ですので、昇進は速く、安和二年当時には正二位・左大臣となっていました。
これより上の位階は正一位・従一位、官職は太政大臣くらいしかありませんから、位人臣を極めたといっても過言ではありません。
※以下は官位の関連記事となります
モヤッとする位階と官位の仕組み 正一位とか従四位ってどんな意味?
続きを見る
さらに高明の娘は村上天皇の皇子・為平親王の妃になっていましたので、天皇の外戚になる可能性もありましたが、康保四年(967)9月に守平親王(のちの円融天皇)が立太子され、その道は閉ざされてしまいます。
当然、そこにはきな臭い理由が考えられます。
為平親王にせよ守平親王にせよ、二人共、母は藤原北家出身の中宮・藤原安子となります。
では何が異なるのか?
というと、守平親王は数え6歳で母と死に別れ、その後は叔母である藤原登子や、叔父の藤原兼通(兼家の兄)に育てられていたことです。
いわば”懐柔済み”であり、兼通らとしては守平親王をプッシュしたい。
ついでにいえば、守平親王が無事成長した暁には、兼通の娘を入内させて皇子をもうけてもらいたい。
このとき邪魔になるのは誰か?
為平親王はもちろんそうですが、その舅である源高明も疎ましい存在でした。
もしも守平親王が皇子に恵まれなければ、為平親王の息子に皇位が巡ってくる可能性もゼロではなく、そうなると高明が外戚として台頭してくるのは必至です。
兼通らの一族としては、その可能性を早めにキッチリ潰しておきたい。
そのためにはどうすればよいか?
当時の世情を見ておきましょう。
高明が邪魔者にされた理由
ときの帝は冷泉天皇でした。
現代でも、奇行など悪い意味で有名になってしまわれた方であり、当時は数え20歳の若者。
精神だけでなく体も弱かったとされ、退位も間近かと噂されていた頃でした。
当時は以下のように
天皇: 冷泉天皇
皇太子: 守平親王(のちの円融天皇/光る君へ坂東巳之助さん)
高明の娘婿:為平親王
皇太子である守平親王が皇位につくのは間違いない流れです。
そして兄である為平親王が弟である守平親王(のちの円融天皇)の皇太子になることはまずありません。
しかし、権力者次第で何があるのかわからないのも事実ですから、藤原北家としてはやはり高明を失脚させておきたい。
そんなわけで、何かしらの謀議がなされたようです。
歯切れの悪い言い方になりましたが、実は【安和の変】が具体的にどのような計画で実行されたのか、ハッキリとは伝わっていません。
いわばクーデターですから、そんなものが明確に残っているほうが不自然ですし。
変そのものは、あっさりしているというかスピーディーというか、以下のような展開で終結します。
※続きは【次のページへ】をclick!