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【藤原伊周】
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詮子が選んだのは道長
病みついてからおよそ2ヶ月後の4月10日、藤原道隆が亡くなりました。
次に関白となったのは藤原道隆の弟で伊周の叔父である藤原道兼です。
『光る君へ』を見ていると、道兼は何ら報われることなく終わってしまいそうですが、実際は兄が死去により望んでいたポジションは得られたんですね……と思いきや、さらに急転直下の展開となります。
道兼が在職数日で亡くなってしまうのです。
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あまりにもその期間が短かったため、道兼は【七日関白】というありがたくない呼称も付けられています。大河ドラマの初回でいきなり主人公まひろの母を刺殺した報いだと判定されそうですね。
問題はその次のリーダーです。
藤原伊周が自信満々に色めき立ちそうな場面で、藤原詮子(東三条院)に指名されたのは藤原道長でした。
詮子は「道長を内覧に」と一条天皇に勧め、天皇もこれを許可。
道長はようやく伊周の官位を追い抜き、右大臣や藤氏長者(藤原氏全体の当主)なども認められます。
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一条天皇としても、実務能力に疑問符がつき、評判の悪い伊周より、それなりに歳を重ねて充実していた道長のほうが重職にふさわしいと考えたのでしょう。
しかし、伊周は「なんでアイツなんだよ!」とばかりに、道長への対抗姿勢を表します。
実際、そんな緊張状態に触発されたのか、伊周の弟である藤原隆家の従者が、藤原道長の従者と事件を起こしたり、
「伊周の祖父・高階成忠が道長に呪詛をかけている」
という噂が流れたり、徐々に世間まで敵に回し始めてしまいました。
伊周と道長の当人同士が激しく口論することもあり、他の人々が恐れをなすこともあったとか。
そんな場面で仲裁できるのは、誰が相手でもひるむことの無かった藤原実資ぐらいかもしれませんね。
長徳の変
眉目秀麗で衣装のセンスもよい藤原伊周は、定子に仕える女房たちにも人気があったようです。
『枕草子』で絶賛されている場面があったり、清少納言が出仕したばかりの頃に伊周に絡まれた話が書かれています。
しかし、女性に関連して自ら重大すぎる事件を起こしてしまいます。
現在では【長徳の変】と呼ばれているものです。
長徳二年(996年)1月16日、伊周と弟の隆家が誤って花山法皇に矢を射かけさせてしまったのです。
花山法皇に怪我はなかったものの、矢は袖に当たっていたそうですから、まさに間一髪といったところ。
しかし、花山法皇の従者と伊周らの従者との間で乱闘になり、花山法皇方の家来が二人殺害されたばかりか、伊周方がその首を持ち去ってしまったというのですから、鎌倉武士もビックリの展開。
なぜ、そんな乱暴を働いたのか?というと、女性関係について誤解があったためです。
当時、伊周は太政大臣・藤原為光(故人)の三女のもとへ通っていました。
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一方で花山法皇は、為光の四女のもとへ。
三女も四女も為光邸に住んでいたため、その近隣で男性の人影を見た伊周が
「俺の目当ての三女に他の男が通っている!憎き恋敵!!」
と頭に血を登らせ、よく確かめもせず従者に命じて襲撃させてしまったのです。
当時、貴族の間でこういった乱暴な事件は珍しくなく、共に襲撃に加わった弟の藤原隆家も【天下のさがな者(暴れん坊)】として知られる戦闘タイプの貴族。
花山法皇は出家後ということもあり、みっともない事件だけに沈黙していたのですが、死者が二人も出ていて問題にならないわけがありません。
伊周にとっては最も知られたくない道長の耳にも入ってしまうのです。
ちなみに、花山法皇がかつて寵愛していた藤原忯子も為光の娘であり、亡き寵妃の面影を求めて四女のもとに通っていたのかもしれません。
伊周も、もう少し丁寧に確認さえしていれば、こんな事件にならなかったものを……と後悔先に立たず。
話を聞いた道長はすぐに動きました。
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