一条天皇

一条天皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

『光る君へ』一条天皇は史実でどんな人物だった?道隆や道長とはどんな関係だった?

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一条天皇
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長徳の変

程なくして藤原道隆が逝去。

関白の座が、すぐ下の弟・藤原道兼に転がり込むと、道兼もわずか数日で死去するという、なんだかキナ臭い結果となります。

「七日関白」と言われたりしますが、この辺、ドラマでどう描かれるか楽しみですね。

となると次の関白は誰になるのか?

詮子の後押しもあり、道隆の嫡子・藤原伊周ではなく、道長が内覧・右大臣として権力をふるい始めました。

むろん伊周も簡単には諦めきれない。

引き続き、道長らと対立姿勢でいたところ、とんでもない事件を起こしてしまいます。

自らが通っていた女性に関して花山法皇と暴力沙汰に発展してしまい、矢を射かけてしまったのです。

花山法皇、まさかの表舞台に再登場。

月岡芳年『月百姿 花山寺の月』/wikipediaより引用

実際は伊周の単なる勘違いだったのですが、いずれにせよ法皇を相手に矢を放ち、暴力沙汰まで起こした一件は道長の耳に入ったとされ、地方へ飛ばされることに。

いわゆる【長徳の変】と呼ばれる騒動に発展したのでした。

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都落ちが決定した伊周は「病気なので配流先に行けません」と言ったり、定子の御殿に逃げ込んだり、いろいろと逃げ回って、なかなか配流先に行こうとしませんでした。

日頃の言動もあった上での行動ですから、当然、一条天皇も許しません。

定子の御殿は、彼女を退出させた後、天井や床板を剥がしてまで探して引き立てさせたといいます。

そのため兄弟が連行されていく様を見た定子が大きなショックを受け、自らハサミを手にとって髪を落としてしまったとか……。

彼女は身重の体だったため、公家たちに二重の意味で白い目を向けられることになります。定子本人にはあまり責任がないことだけに、なんともすっきりしない話です。

 

彰子の入内

長徳二年(996年)、一条天皇と定子の間に脩子内親王が生まれ、3年後の長保元年(999年)には敦康親王が誕生。

一度出家したにもかかわらず定子を愛し続けた一条天皇に対し、批難の声もあったようですが……愛の力ってスゴイ。

すると、それを黙って見過ごすことができない男が立ち上がります。

一条天皇の叔父である藤原道長

同じく長保元年、娘の藤原彰子を入内させるのです。

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不穏な空気が漂い始めました。

彰子は当時、裳着を終わらせたばかりの12歳であり、一条天皇からすると8歳下の幼い女の子。

確かにこれぐらいの年齢で結婚することも珍しくない時代ですが、既に定子を娶り、子供にも恵まれていた一条天皇からすると、困惑して当然でしょう。

『栄花物語』では、彰子のもとへ渡った一条天皇が

「(彰子と並んでみると、年が離れているので)私が翁のように思えてしまって恥ずかしいな」

とふざけたことがある、とされています。

しかし、道長としては当然

「ぜひウチの娘から皇子を!」

となるわけです。

道長もたびたび病気をしていましたので、余計に焦る気持ちがあったのかもしれません。

そのため長保二年(1000年)、彰子が中宮に立ち、定子は皇后となりました。

定子の立場を守った形にはなりますが、道長以外でこのことを好意的に受け止めた人がいたかどうか。

そして長保二年(1001年)12月、媄子内親王を出産した定子は、直後に亡くなってしまいます。

 

定子の妹・御匣殿も……

一条天皇はひどく悲しみ、定子の遺児である皇子・皇女の世話をしていた定子の妹・御匣殿(みくしげどの)を愛するようになりました。

御匣殿というのは女性の官職の名前で、実名は伝わっていません。

彼女は一条天皇の寵愛を受けて身ごもると、経過が良くなかったのか、妊娠中に亡くなってしまいます。

御匣殿の中に定子の面影を見ていた一条天皇にとっては、相当堪えたことでしょう……。

枕草子絵詞/wikipediaより引用

一方、なかなか子供のできなかった藤原彰子は、寛弘五年(1008年)、念願かなって懐妊。

同年に敦成親王(のちの後一条天皇)、寛弘六年に敦良親王(後朱雀天皇)が生まれ、俄然、道長の権勢が強まり、その座が確立してゆきます。

そして一条天皇にとっては定子の忘れ形見である敦康親王の皇位継承も難しくもなりました。

当時は母の実家が何よりも後ろ盾になる時代です。

敦康親王は既に母・祖父・曽祖父を亡くし、母・定子の兄弟である藤原伊周や藤原隆家も失脚してしまっていたため、血筋の近い人々から後押しを得にくい状態でした。

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定子と御匣殿が亡くなった後、一条天皇が敦康親王を彰子に預けたのは「なんとか敦康親王の将来を明るいものにしたい」という親心だったのでしょう。

もしも彰子が皇子を産めなければ、そのまま彼女を義母として立太子などしたのかもしれません。

しかし現実はさにあらず。

彰子から敦成親王と敦良親王が生まれ、敦康親王は日陰の存在にならざるを得なくなります。

彰子としても敦康親王に対して悪意など無かったようですが、いかんせん道長のゴリ押しがあり、抗いきれません。

『栄花物語』では、彰子の懐妊に気付いた一条天皇が、彰子が恥ずかしがって止めたにもかかわらず、自ら道長に知らせたといいます。

物語ですので事実かどうかは不明なれど、一条天皇も、後ろ盾(道長)のシッカリした子供を授かったこと自体は嬉しかったのではないでしょうか。

子供が無事に生まれても、そのまま成人まで育つ確率は低かった時代ですし……実際、定子の遺した媄子内親王もわずか9歳でこの世を去っています。

自分が病弱であることも含め、一条天皇は人の命の儚さを強く感じたことでしょう。

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