一条天皇

一条天皇/wikipediaより引用

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『光る君へ』一条天皇は史実でどんな人物だった?道隆や道長とはどんな関係だった?

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一条天皇に他の妻たちは?

一条天皇のもとに入内したのは藤原道隆藤原道長の娘だけではありません。

他にも有力どころから

◆藤原義子(ぎし/よしこ・藤原公季の娘)

◆藤原元子(げんし/もとこ・藤原顕光の娘)

◆藤原尊子 (そんし/たかこ・藤原道兼の娘)

といった女性たちが入内して、彼女たちは子供に恵まれませんでした。

元子とはたびたび同衾していたようですが、懐妊の後に流産しています。

義子や尊子は懐妊したことがないようです。

本人たちの体質的に子供ができにくかった可能性もありますが、後ろ盾となる実家の政治的基盤が弱かったため、一条天皇があまり通わなかったのかもしれません。

他にも、二つの理由がありそうです。

一つは一条天皇の父である円融天皇の影響。

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詮子以外とは子供をもうけようとしなかった父の円融天皇は、愛情というより政治的な意図が強かったと考えられます。

円融天皇は一回り年上だった最初の中宮・藤原媓子(こうし/てるこ)と仲睦まじいながら、子供に恵まれないまま彼女が薨去。

そこで、後ろ盾の確かな兼家の娘・詮子と子供を作ったと考えられるのですが、それでいて詮子ではなく、藤原遵子(藤原公任の姉)を中宮にしているのです。

さらには姪にあたる尊子内親王を寵愛したりしていました。

円融天皇は、愛情と政治的な責任をあえて分離していたと考えられるのです。

そうした父の薫陶を受けた上で政情を考えていたとすれば、一条天皇も「子作りは政治を意識してするもの」という価値観があったのではないでしょうか。

定子については幼い頃から親しんだ相手でもあり、例外だったのでしょう。

もう一つは当時の皇室の血筋事情です。

一条天皇の父・円融天皇は、冷泉天皇の弟でした。

冷泉天皇本人が少々精神的に不安定だったため、若いうちに退位させられましたが、問題のない複数人の皇子たちがいました。

そのため、当時の皇室では冷泉天皇系と円融天皇系の血筋が混在しており、円融天皇が子だくさんになってしまうとさらなる混乱を招く可能性があったのです。

皇子の人数が少なければ、交互に皇位を継ぐことにより、混乱を比較的防ぐことができます。

そのため円融天皇や一条天皇はあまり子作りをしなかったのではないか……ということです。

一条天皇が彰子に対してどんな感情を抱いていたのか――そこは正直わかりにくい。

道長の目を意識して通ったこともあったでしょうし、幼くして入内させられた彰子へ同情がなかったとはいえないでしょう。

彰子の御殿へ行っていたときに火事が起きた際は、一条天皇と彰子の二人で逃げたこともありましたので、上辺だけの夫婦関係ではなかったとも思いますが。

散逸してしまったとされる一条天皇の日記が今後見つかれば、彰子との関係もはっきり浮かび上がってくるかもしれません。

 

一条天皇と道長の関係

一条天皇と藤原道長の関係はどうだったのか?

叔父であり、妻の父であり、大権力者であり。

なかなか難しいようで、天皇ですら気を遣わねばならない相手のように思いますが、

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用

一方的にやり込められていたわけではありません。

病気を理由に欠席を連絡した道長に対し、「いいから来なさい」と命じたことも一度や二度ではありません。

逆に、一条天皇が病気になった際は、道長が自分の体調不良を顧みず出仕したことも。

お互いに「この人とうまくやっていかなければダメだ」という気持ちがあったのではないでしょうか。

個人的な想像ですが、私的な事柄として『源氏物語』が一条天皇と道長の仲立ちになった可能性もあると考えています。

なぜなら『紫式部日記』に「源氏の物語を帝が女房に朗読させた」とする記述があり、道長も源氏物語のファンだったことから、二人が親しく語らうこともあったのでは?

『光る君へ』でそんな場面が描かれたら胸熱ですね。

ともかく道長や彰子と良い関係を維持していた一条天皇でしたが、寛弘八年(1011年)5月22日、重い病に倒れてしまいます。

彰子のもとへ渡ったのと同じ日だったとされ、このときまだ32歳。

当時の基準で若いとはいい切れないながら、まだ十分に働ける年齢です。

しかし病状が思わしくなく、心身共につらい状況では、譲位と次の皇太子を決めなければならない状況になります。

譲位については皇太子の居貞親王がいるので問題はありません。しかし、その後の皇太子を誰にするのか、ハッキリさせていませんでした。

最愛の定子が残したけれど、後ろ盾の心もとない敦康親王か。

彰子との間に生まれ、後見に道長を持つ敦成親王か。

感情的には前者をとりたかったようで、一条天皇は『権記』の著者である藤原行成に「敦康をどうすべきか?」と諮問しています。

行成は天皇の秘書長ともいえる蔵人頭を務めていた人物であり、公私の事情をよく理解してくれる相手でもありました。

政情や故事、そして血統に関する点を述べ、行成は結論として

「次の皇太子は敦成親王殿下がよろしいでしょう」

と進言。これにて一条天皇の肚も決まったと思われます。

その後、一条天皇は位を譲る居貞親王に対し、敦康親王の処遇について頼みこみ、居貞親王もこれを引き受けています。

そして6月13日に譲位が成立すると、翌日にはさらに病状が悪化。

同月19日に出家した後、22日に崩御しました。

 

大変な愛猫家

最後に、少し和やかな話題で〆ましょう。

天皇の個人的な人格についてはあまり浮き上がってこないことが多いですけれども、一条天皇には随一と言っても過言ではない特徴があります。

大変な愛猫家だったのです。

遡ること長保元年(999年)、内裏で生まれた猫のために産養の儀式を執り行い、人間の乳母をつけたという話があるのです。

さらにこの猫はその後「命婦のおとど(おもと)」と名付けられ、位階を与えられていました。

「命婦」は、従五位下より上の位階をもつ女性なので、雌猫だったのでしょう。世話係として”馬の命婦”という女房までつけられていました。

この猫は『枕草子』の「上にさぶらふ御猫は」という段にも登場します。

命婦のおとどが縁側で寝ていたのを、馬の命婦が「室内へ入りなさい」と言っても入らないので、同じく宮中で飼われていた翁丸という犬をけしかけてしまいました。

これを見た一条天皇が激怒し、

「翁丸は犬島へ流してしまえ!」

と命じたことが記されているのです。

高祖父の宇多天皇も大の猫好きだったので、隔世遺伝のようなものなのでしょうか。

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宇多天皇が可愛がっていたのは真っ黒な猫でしたが、命婦のおとどは毛色についての記録がなく、少々気になるところです。

一条天皇の日記は現存していないのですが、もしかしたら散逸した中に記述があったかもしれません。

大河ドラマのテーマとなった時代や人物については、研究が進みやすく新発見が報じられるケースも多々あります。

一条天皇の日記もそうなると良いですね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
倉本一宏/日本歴史学会『一条天皇(人物叢書)』(→amazon
ほか

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