藤原為光

画像はイメージです(紫式部日記絵巻/wikipediaより引用)

飛鳥・奈良・平安

兼家の弟で斉信と忯子の父だった藤原為光|地味キャラとは侮れないその生涯

2025/06/15

正暦3年(992年)6月16日は藤原為光の命です。

大河ドラマ『光る君へ』では阪田マサノブさんが演じる、ぶっちゃけ地味なキャラクターでした。

しかし、本人は大したことをしていないのに、なぜか周囲に目立つ人物がいたり、派手なイベントが起きたり。

なんだか不思議な存在感があったのも事実。

というのも、当人は藤原兼家の弟であり、花山天皇が愛した藤原忯子の父であり、ゆえに藤原斉信(はんにゃ金田さん)の父でもあり、他の娘は道長の妾になるばかりでなく、彼の邸が『紫式部日記』の著名なシーンの舞台にもなったり。

この時代においては欠かせない要素の中心にいたのです。

決して目立ちはしないけど、知っておくと同時代が面白くなる――そんな藤原為光の生涯を振り返ってみましょう。

 


子供の頃から地味な人?

藤原為光は天慶五年(942年)、藤原師輔の九男として生まれました。

藤原師輔/wikipediaより引用

母は醍醐天皇の娘・雅子内親王という高貴な方。

前述の通り、異母兄には藤原兼家がいます。

兼家を兄に持つ時点で、普通ではない育ち方をイメージしそうですが、同時代における他の人々と同様、幼い頃の話はあまり伝わっていません。

父の日記『九暦』の天暦七年(953年)正月五日に少年時代の為光が登場し、少々地味というか、本人に関する話よりすぐ上の同母兄である藤原高光の話題が強めです。

この日、師輔邸では「大饗」という宴会が行われ、宴の後に高光・為光が式部卿親王に呼び出されました。

余興として呼ばれたのでしょうか。幼い兄弟は詩を諳んじたり、高光が手跡を披露したりして、為光については特別な記載がありません。

この「式部卿親王」とは、おそらく醍醐天皇の第四皇子・重明親王(906~954)のこと。

師輔の娘を妻の一人に迎えており、師輔の妻で高光・為光の母である雅子内親王とは異母きょうだいでもあります。

つまり重明親王にとって高光・為光は甥っ子なわけですね。

『九暦』の記述によると、重明親王は高光の手跡を気に入って持って帰ったらしいので、日頃から良い関係だったのかもしれません。

重明親王の日記『吏部王記』については、残念ながら散逸して現存していないとされているのですが、もしも今後見つかった場合は、師輔一家との交流も詳しくわかるかもしれません。

 


安和の変でヒヤリ

藤原為光は天暦十一年(957年)、従五位下に叙爵されたのを皮切りにどんどん出世していきます。

左兵衛権佐や右近衛少将といった武官が主な職でしたが、五位蔵人を務めたこともあります。

五位蔵人とは、天皇の秘書官長である蔵人頭のすぐ下にあたる役職であり、エリートコースに乗り始めたといったイメージですね。

康保四年(967年)6月に冷泉天皇が即位した後、10月に従四位下に昇進するまで蔵人を務めていました。

ヒヤリとした事件が起きたのは安和二年(969年)のこと。

【安和の変】で母方の叔父であり義兄弟(姉妹の夫)にあたる左大臣・源高明が失脚してしまいます。

※以下は「安和の変」関連記事となります

安和の変
安和の変で源高明が没落|なぜ明子(道長の妻)の父は藤原氏に蹴落とされたのか

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為光は高明の娘婿・為平親王の家司(エライ人に私的に仕える人)を務めていたため、連座して昇殿できなくなってしまいました。

しかし密接な関係でないことからすぐに許され、その後も昇進し続けています。

若い頃の為光にとって、かなり肝が冷えたと思われる出来事だったでしょうね。

安和二年(969年)8月に円融天皇が即位した後、同年10月に蔵人頭に任じられており、全く問題なかったことがうかがえます。

さらに、天禄元年(970年)には参議兼左近衛中将として公卿(政治を主導する太政官の中心人物たち)の一員に仲間入りしており、前途洋々といったところでした。

ちなみに藤原道長の妻である源明子は、この高明の娘。

事件によって家は傾いてしまいましたが、高明は醍醐天皇の皇子であり血筋は抜群だったため、彼女の面倒を見ていた藤原詮子によって引き合わされています。

藤原詮子/wikipediaより引用

 

異母兄たちのおかげで出世

九男である藤原為光は、セオリー通りに考えると大いなる出世は難しい。

しかし母が内親王という高貴な身分だったためか、異母兄の藤原伊尹(これただ/これまさ)や藤原兼通から引き立てられたようです。

天延元年(973年)には従三位権中納言になり、同じ年の夏に中宮大夫を兼任しました。

当時の中宮は兼通の長女・藤原媓子です。

兼通の長男・藤原顕光が就任しても良さそうなものですが、それでも為光が任じられたあたりに存在感がうかがえますね。

その後も為光は順調に昇進し続け、貞元二年(977年)には従二位大納言となり、異母兄の藤原兼家を超えてしまいました。

藤原兼家/wikipediaより引用

こんなことをすれば、後に兼家から排除されたのでは?

と思われるかもしれませんが、当時の兼家は兄の兼通と対立していたため、為光が出世面で優先されたと考えられています。

しかし同年11月にその兼通も亡くなり、翌天元元年(978年)には兼家が右大臣に就任して立場が逆転。

異母兄弟の間では密かに火花がバチバチし始めます。

こうなると、勝敗の鍵を握るのは「どちらが先に天皇の外戚になるか」しかありません。

 


天皇の外戚になりかける

永観二年(984年) 8月、藤原為光は春宮権大夫に任じられ、当時の春宮(=東宮=皇太子)だった師貞親王と密接な関係になりました。

師貞親王は後の花山天皇。

花山天皇/wikipediaより引用

『光る君へ』ではあまり注目されませんでしたが、師貞親王の母は藤原伊尹の娘・藤原懐子でした。

しかし天禄三年(972年)に伊尹が亡くなってしまうほか、懐子をはじめとした子女たちも父の数年後に亡くなっている人が多く、師貞親王は非常に後ろ盾が少ない存在でした。

幸い師貞親王と為光の関係は良好だったようで、同年10月に花山天皇として即位した直後、為光の次女・藤原忯子が入内します。

忯子は、花山天皇一番のお気に入りとなり、為光自身も内給所(=朝廷に入ってくる銭を管理する役所)を任されました。

後々の花山天皇の行動から考えると、為光一家の人となりや家風をまるごと気に入っていたのかもしれません。

しかしこれにやっかむ人もいたようで、藤原実資の日記『小右記』の目録『小記目録』の永観二年(984年)12月10日に

「為光の家に犬の死穢があった」

という事件が記録されています。

花山天皇が即位して二ヵ月経った日の話であり、忯子も既に入内していたと見られるので、他の貴族による嫉妬からの嫌がらせでしょう。

死や流血を忌む宮中では、間近に接した人は出仕を遠慮しなければなりません。

そこにつけこみ、仕事をさせないため他家の中に「犬の死骸を投げ込む」というのはままある話だったのです。

他人を蹴落として上に向かおうという人がいるのは今も昔も大して変わらないんですね。

 

【寛和の変】で奈落の底へ

かくして見知らぬ者から嫉妬されるほどの黄金時代を迎えた藤原為光。

残念ながら長くは続きません。

寛和元年(985年)7月に藤原忯子が急死してしまったのです。このとき彼女は懐妊していたとされ、死因は、妊娠に伴う諸症状が考えられそうですね。

短期間で懐妊したというだけでも寵愛のほどがうかがえます。

それだけに花山天皇にとっては心底つらい状況だったのでしょう。

それを藤原兼家や藤原道兼らに狙われ、翌寛和二年(986年)6月、彼らの策によって譲位&出家してしまいました。

いわゆる【寛和の変】ですね。

結果、円融天皇の子である一条天皇が即位し、外祖父の藤原兼家が摂政に就任しました。

一条天皇/wikipediaより引用

為光にとっては娘が亡くなっただけでも辛い場面なのに、

・せっかく娘が懐妊したのに皇子に恵まれるどころか死産

・かつ花山天皇も退位

という政治的に痛すぎるコンボを喰らってしまったことになります。

為光には他にも娘がいましたが、おそらくこのタイミングでは入内に適していないと考えられていたのでしょう。

不幸中の幸いだったのは、藤原兼家に敵視されなかったことです。

兼家は、左大臣・源雅信に対抗する目的もあって、弟の為光を重んじました。

寛和の変の翌月に右大臣となり、さらに翌寛和3年(987年)には従一位にまで上っているのです。

しかし、一連の動きは、あくまで兼家の傘下に入った手駒と同然であり、為光としては微妙な心持ちだったことでしょう。

 

藤原道綱・道長とのトラブル

同時期の藤原為光はどんな立場だったか――それを示すような話があります。

永延八年(987年)4月17日のことです。

藤原兼家の息子である藤原道綱と藤原道長の兄弟が、同じ牛車で葵祭の見物に行こうとしていました。

二人は異母兄弟でも仲が良かったようで、この日もウキウキしながら同乗していたのでしょうね。

駒競行幸絵巻東宮の牛車/wikipediaより引用

しかしアタリを付けていた場所には先に為光が着いており、大勢の従者たちで埋まっていました。

そこで道綱と道長の牛車は他の場所へ向かおうとしたところ、為光の牛車の前を横切ってしまったため、従者たちが激怒。

道綱・道長の牛車へ一斉に石を投げるという暴挙に出たのです。

この時点では為光のほうが圧倒的に高い身分なので、従者たちはその威信を守ろうとしたのでしょうけれども……やりすぎですね。

従者同士の間で日頃から諍いがあった可能性もなきにしもあらずですが。

道綱・道長の兄弟が、父にこの件を報告するのと前後して、為光の家司が詫び状を入れに来たり、為光本人も兼家に会って謝ろうとしたりしています。

為光が直接何かをしたわけではありませんが、当時の従者たちは日頃から主人の言動をよく覚えていることが多く、

「主人のために!」

と先走って行動することがままありました。

為光が、兼家やその息子たちに関する愚痴を言ったことがあって、それを覚えていた従者たちが

「日頃から殿を困らせているいけ好かない奴らが、祭の日にとんでもなく失礼なことしてきた! 許せん!!」

と暴走した結果だったのかもしれません。

ちなみにこの年の末に道長は源倫子と結婚し、翌年、藤原彰子が生まれ、やがて天皇の外戚としての地位を確立していくことになります。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用

為光からすると、自分ができなかったことを甥にやられた形になるわけです。

彰子が入内する頃になると、為光は既に鬼籍に入っているので不幸中の幸いかもしれません。

牛車の乱闘事件も影響したのか、以降の藤原為光はどこか諦めた空気というか、老い支度に入ったような動きをしています。

永延二年(988年)に忯子の菩提を弔うために法住寺を建立。

仏道に励むことで、政治的な憤懣を和らげる目的もあったかもしれません。

ちなみに法住寺は一度焼失した後、平安時代末期に後白河法皇の御所「法住寺殿」となり、さらに源平合戦の中で木曽義仲に焼き討ちされることになります。

 

位人臣を極めたけれど

正暦二年(991年)、藤原道隆の推挙で、藤原為光が太政大臣に任じられました。

本人の日記では「私が太政大臣に任じられた」としか触れられておらず、あまり嬉しくなさそうに見えます。

この件に関しては、むしろ藤原行成の日記『権記』のほうが詳しく、

藤原行成/wikipediaより引用

以下のように書かれています。

「摂政である藤原道隆が太政大臣になるべきだが、彼は遠慮した。

それなのに無理やり任じて昇進させるのは彼の心と違えることになる。

そのため歴代の重臣である右大臣為光を太政大臣に任じる」

つまり最初から為光が太政大臣に決まっていたわけではなく、

「道隆が遠慮したおかげで為光に太政大臣の座が回ってきたんだから感謝しなさいよ」

と言われているも同然。

為光にとっては悔しいやらやるせないやらで、日記に詳細を書きたがらないのも頷けます。

貴族の日記は基本的に「歴史や前例を子孫へ伝えるために書かれる」ものなので、感情を入れずに書くことで他家との軋轢を防いだのかもしれません。

為光が亡くなったのは、太政大臣に任じられた翌年の正暦三年(992年)6月16日でした。

位人臣を極めたにも関わらず、素直に喜べなかったのは、経緯もさることながら体調面の理由もあったのかもしれません。

為光本人の生涯は以上ですが、彼の名は本人の死後にも頻繁に登場します。

彼の息子たち・娘たちが複数人歴史に関わってくるからです。

特に逸話のある人達を中心に振り返っておきましょう。

 

四納言の一人 次男・藤原斉信

大河ドラマ『光る君へ』でも重要なポジションにいた藤原斉信

劇中でははんにゃ金田哲さんが演じられ、藤原公任・藤原行成・源俊賢と並ぶ【寛弘の四納言】の一人に数えられる貴族ですね。

藤原斉信/wikipediaより引用

彼は道長と接近することで、侍従・蔵人頭・参議・大納言と出世しました。

詩才に優れ、立ち居振る舞いも優雅ということで後宮での人気も高かったようです。

一条天皇の中宮・藤原定子のもとによく出入りしていたため、枕草子でたびたび登場します。

「斉信が清少納言と絶交しようとしてやっぱり気になって手紙をやった話」

「服装の趣味が素晴らしいと清少納言が内心で絶賛し、定子や他の女房たちとの話題になった話」

「清少納言が宿下がりしているときに、元夫の橘則光に”清少納言を訪ねたいので居所を教えろ”と迫った話」

宿下がりから始まる段は則光との物別れに関する話で締められているので、清少納言は斉信に対して素っ気なく見えます(個人の感想です)。

身分の差からくる遠慮かもしれませんが。

その後、斉信は道長に接近し、彰子や威子の中宮大夫、そして敦成親王(のちの後一条天皇)の東宮大夫なども務めています。

あまりにも鮮やかな鞍替えだったためか、藤原実資には小右記の中でディスられているほどです。むしろ実資が例外なんですけどね。

その実資が長生きしたことなどにより、斉信は大臣になれずに終わっています。

とはいえ晩年は穏やかなものだったようなので、この時代の人としては幸運なほうでしょう。

 

情熱的な貴公子 三男・藤原道信

藤原道信は、斉信の異母弟です。

しかし、その才覚はよく似ていました。

藤原実方・和泉式部赤染衛門藤原公任といった当時の有名歌人と多く交流を持ち、拾遺和歌集などに多くの歌が入選しています。

百人一首52番の情熱的な以下の歌が特に有名です。

明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき あさぼらけかな

【意訳】夜が明けても、また暮れればあなたに会えるとはわかっているのだが……わかっていても、別れを告げる夜明けが恨めしいよ

また、花山天皇に入内していた婉子女王(えんしじょおう/つやこじょおう)との恋もよく知られています。

彼女は花山天皇が退位・出家した後、そのもとを離れたため、道信をはじめとした貴族たちに求められていました。

しかし婉子女王は最終的に道信ではなく藤原実資を選んだため、道信は未練を伝える歌を送っています。

嬉しきは いかばかりかは 思ふらん 憂きは身に染む ものにぞありける

【意訳】あなたは恋が実ってさぞ喜んでいることでしょう。しかし恋に破れた私には、憂いが身にしみています

実資は婉子女王より15歳も年上であり、年齢でいえば同世代の道信のほうがふさわしいといえなくもないので、余計に悔しかったのでしょうか。

道信は兼家の養子となって出世していきましたが、正暦五年(994年)に23歳の若さで亡くなりました。

翌年に流行り病で多くの貴族が命を落としているため、道信は一足先にその病気をもらってしまったのかもしれません。

辞世の歌は『千載和歌集』にも入選している、通っていた女性に送った歌です。

口なしの 園にや我が身 入りにけむ 思ふ事をも 言はでやみぬる

【意訳】私はもう、くちなしの花園に入ってしまったようです。あなたを思っていたことを口に出せません

「くちなし=口無し=死者」に通じることから、死を悟ってから力を振り絞って詠んだのでしょう。

形見分けとして相手の女性に山吹色=くちなし色の衣を贈り、この歌を添えたといわれています。

最後の最後まで情熱的な人だったんですね。

 

何かと巻き込まれる娘たち

平安時代の女性にはよくある話で、為光の娘たちは様々な要人に巻き込まれ、歴史に存在感を残しています。

三女の三の君こと「寝殿の上」と呼ばれていた女性は、藤原伊周(道隆の嫡男)と関係していた人でした。

藤原伊周/wikipediaより引用

四女の藤原儼子(たけこ)は花山法皇に寵愛されています。

そのため伊周が

「俺の通っている女のところに別の男が来ている!」

と勘違いして、お忍び姿だった花山法皇に矢を射かけて……という騒動が【長徳の変】という政変に発展、伊周を含めた中関白家が失脚する原因となります。

矢を射かけただけでなく、従者同士でも闘乱して、花山法皇の下男の首を持ち去ったという話もあります。怖すぎるやろ平安京。

しかも儼子は、後に道長と関係を持ち、子を授かるのですが……長和5年(1016年)1月21日に死産し、儼子本人も亡くなったといいます。

出産が命がけの時代であったことを痛感する話ですね。

また、為光の五女・藤原穠子も道長の妾になったとされています。

長和五年(1016年)4月の賀茂祭の折、道長は「穠子が懐妊中」という理由で賀茂詣を取りやめたと日記に書いているのです。

しかし、彼女はこの時点でなんと16ヶ月も懐妊していたとか。

その後も出産した記録がなく、想像妊娠あるいは他の病気だったか、もしくは道長のサボりたい言い訳に利用されたのかもしれません。

流産・早産してしまって記録されなかったという可能性もありますが。

他の可能性としては、賀茂祭の時点で穠子が流産していて、道長がその場に居合わせてしまったため、産穢(さんえ・出産で出血した際の穢れ)に触れたとして遠慮した……というのもありうる話ですね。

穠子は寛仁二年(1018年)10月の時点で道長の娘・妍子(当時皇太后)に仕えていたとされ、その後は禎子内親王に仕えたようなので、道長との関係は長く続いたかもしれません。

 

超優良物件に住んでいた為光

最後に、為光一家に関する「お屋敷の話」をご紹介しましょう。

藤原行成の日記『権記』の長徳四年(998年)にこんな記事があります。

「為光の娘が経済的に苦しい立場になり、一町ほどもあった大邸宅を米8000石で売った」

買い手は佐伯公行という人で、受領の間にかなり蓄財していたのだとか。

1石=一人が一年間に食べる米の量なので、単純計算で8000人を一年養えるような金額で家を売ったことになります。

2022年の総務省による調査では、現代人の食費は毎月約3万円(外食を除く)。

これまた単純計算して年に36万円とすると、8000人分で28億8000万円です。

現代では某・超有名YouTuberさんの家が20億といわれているので、為光が残した屋敷の価値の高さがうかがえますね。

もっとも、現代では地価や景気の影響を受けたり、有名な建築家やデザイナーが絡んだりすると一気に値段が上がることもあるので、単純な比較はできません。まぁイメージということで。

「元・為光邸」は佐伯公行から藤原詮子(道長の姉で支持者)へ献上され、詮子とその子である一条天皇の里内裏として使われるようになりました。

そのため一条天皇時代にこの屋敷が多く登場します。

例えば長保元年(999年)6月14日に内裏で火事があり、一条天皇と藤原定子が一条院に遷御したことがありました。

枕草子絵詞/wikipediaより引用

枕草子では、この一条院滞在中に一条天皇が定子のもとにやってきて笛を吹いたときのことが記されています。

定子は翌長保二年(1000年)12月に第三子・媄子内親王を産んだ後崩御してしまうので、晩年の安らぎのひとときといえるでしょう。

また以下のように『紫式部日記』に書かれている、寛弘五年(1008年)12月31日の強盗事件も、この屋敷でのことでした。

「彰子の御在所に強盗が押し入り、女房二人が衣装を剥ぎ取られた」

その翌年・寛弘六年(1009年)10月5日には一条院が火事で焼失してしまい、寛弘七年から再建されています。

一条院はその後も一条天皇と彰子に使われ、寛弘八年(1011年)6月22日に一条天皇がここで崩御し、彰子との間に生まれた後一条天皇も用いました。

為光は外戚になることはできませんでした。

しかし、彼の邸がその後の天皇たちに使われたというのはなかなか数奇なめぐり合わせですね。

大河ドラマ『光る君へ』でも、生前はもちろん、亡くなった後も色々な場面で藤原為光の名が登場するかもしれません。


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【参考】
木村朗子『女たちの平安宮廷『栄花物語』によむ権力と性』(→amazon
繁田信一『庶民たちの平安京』(→amazon
倉本一宏『平安京の下級官』(→amazon
繁田信一『平安貴族 嫉妬と寵愛の作法』(→amazon
京樂真帆子『牛車で行こう!-平安貴族と乗り物文化-』(→amazon
倉本一宏『藤原道長の日常生活』(→amazon
朧谷寿『藤原道長 男は妻がらなり』(→amazon
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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