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【藤原為光】
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天皇の外戚になりかける
永観二年(984年) 8月、藤原為光は春宮権大夫に任じられ、当時の春宮(=東宮=皇太子)だった師貞親王と密接な関係になりました。
師貞親王は後の花山天皇。
『光る君へ』ではあまり注目されませんでしたが、師貞親王の母は藤原伊尹の娘・藤原懐子でした。
しかし天禄三年(972年)に伊尹が亡くなってしまうほか、懐子をはじめとした子女たちも父の数年後に亡くなっている人が多く、師貞親王は非常に後ろ盾が少ない存在でした。
幸い師貞親王と為光の関係は良好だったようで、同年10月に花山天皇として即位した直後、為光の次女・藤原忯子が入内します。
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忯子は、花山天皇一番のお気に入りとなり、為光自身も内給所(=朝廷に入ってくる銭を管理する役所)を任されました。
後々の花山天皇の行動から考えると、為光一家の人となりや家風をまるごと気に入っていたのかもしれません。
しかしこれにやっかむ人もいたようで、藤原実資の日記『小右記』の目録『小記目録』の永観二年(984年)12月10日に
「為光の家に犬の死穢があった」
という事件が記録されています。
花山天皇が即位して二ヵ月経った日の話であり、忯子も既に入内していたと見られるので、他の貴族による嫉妬からの嫌がらせでしょう。
死や流血を忌む宮中では、間近に接した人は出仕を遠慮しなければなりません。
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そこにつけこみ、仕事をさせないため他家の中に「犬の死骸を投げ込む」というのはままある話だったのです。
他人を蹴落として上に向かおうという人がいるのは今も昔も大して変わらないんですね。
【寛和の変】で奈落の底へ
かくして見知らぬ者から嫉妬されるほどの黄金時代を迎えた藤原為光。
残念ながら長くは続きません。
寛和元年(985年)7月に藤原忯子が急死してしまったのです。このとき彼女は懐妊していたとされ、死因は、妊娠に伴う諸症状が考えられそうですね。
短期間で懐妊したというだけでも寵愛のほどがうかがえます。
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それだけに花山天皇にとっては心底つらい状況だったのでしょう。
それを藤原兼家や藤原道兼らに狙われ、翌寛和二年(986年)6月、彼らの策によって譲位&出家してしまいました。
いわゆる【寛和の変】ですね。
結果、円融天皇の子である一条天皇が即位し、外祖父の藤原兼家が摂政に就任しました。
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為光にとっては娘が亡くなっただけでも辛い場面なのに、
・せっかく娘が懐妊したのに皇子に恵まれるどころか死産
・かつ花山天皇も退位
という政治的に痛すぎるコンボを喰らってしまったことになります。
為光には他にも娘がいましたが、おそらくこのタイミングでは入内に適していないと考えられていたのでしょう。
不幸中の幸いだったのは、藤原兼家に敵視されなかったことです。
兼家は、左大臣・源雅信に対抗する目的もあって、弟の為光を重んじました。
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寛和の変の翌月に右大臣となり、さらに翌寛和3年(987年)には従一位にまで上っているのです。
しかし、一連の動きは、あくまで兼家の傘下に入った手駒と同然であり、為光としては微妙な心持ちだったことでしょう。
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