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【藤原為時】
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越前守になりたい想いを漢詩に載せて
花山天皇の即位で用いられ、退位によって追い込まれてしまう。
藤原為時は、そんな政局に巻き込まれるも、漢詩の才が失われたわけではありません。
次は藤原道長に引き立てられるようになり、一条天皇の御代に入った後、長徳二年(996年)1月25日の除目(人事発表)で淡路守に任じられました。
しかし当人としては、もう少し良い国の国司になりたかったようで、女房を通して漢詩を奏上し、一条天皇に再考を訴えます。
そのときの詩が以下のように伝わっています。
苦学寒夜
紅涙霑襟
除目後朝
蒼天在眼
意訳するとすれば、こんな感じでしょうか。
夜の寒さに耐えて勉学に励んでいればいつか報われると思ってきましたが、このたびの除目ではそれがかなわず、血の涙で袖を濡らしています。
後日にでもこの除目が改められれば、私はより一層陛下に忠誠を誓うでしょう
無官だった時代からすれば淡路守もかなりの出世に思えるんですけどね。
ともかく藤原為時の詩は、道長へ届きました。
既に任じられていた源国盛を押しのけるような形で、あらためて越前守とされたのです。
なぜ道長は為時の願いを叶えたのか
それにしても、なぜ藤原為時は越前守に任命され直したのか?
見方によれば「国盛から奪い取った職」であり、それをゴリ押しする道長に何のメリットがあるのか? 真意はどこにあったのか?
藤原道長は出世の見込み薄い五男だった なのになぜ最強の権力者になれたのか
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淡路と越前では国守の収入に大きな格差がありましたので、当然、押し出された国盛は嘆き悲しみました。
そのまま病みつき、同年秋の除目では播磨守に任じられるも、回復せずに亡くなってしまいます。
これは『今昔物語集』に載っている話で、真偽については疑わしく、私見ながら述べさせていただきますと……。
この長徳二年(996年)当時、道長の長女である藤原彰子は数え9歳でした。
道長としては最初から彰子を“后がね(后の候補)”として育てていたはずですし、入内後のことを考えれば、一人でも優秀な女房が欲しかったところでしょう。
ですので道長はこのタイミングで為時に恩を売り、娘(紫式部)を女房として仕えさせるための足がかり……という流れであれば、この話も信憑性を増すのではないでしょうか。
「最初から強引に紫式部を仕えさせればいいんじゃない?」
そんなツッコミもあるかもしれませんが、前述の通り為時は長く失職しており、その娘である紫式部もまた、経済的にも身分的にも彰子の間近に仕えさせるには相応しくないと考えたのかもしれません。
「やらせたいことに合わせて相手の身分を整える」というのは、歴史上ままあることです。
あるいは、当時の紫式部が未婚で夫や子供がなかったために、
「もう少し待って、彼女が結婚して子育ての経験をした後のほうが良い教育係になるだろう」
と考えた可能性も考えられるでしょうか。
また、この直前に高麗人あるいは唐人が越前に来訪していたため、漢詩の才を持つ為時が抜擢された……という説もあります。
でも、それなら最初から為時が越前守に任命されたほうが自然ですよね。
いずれにせよ国盛が気の毒です。
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