大河ドラマ『光る君へ』で注目、史実の紫式部に子供はいたのか?
というと、答えはドラマでも描かれていたように「YES」です。
大弐三位(だいにのさんみ)と呼ばれる娘がいて、当時の女性にしては珍しく実名も判明しており、「藤原賢子」と言います。
読み方はハッキリしていませんが、近年では訓読みにすることが多く、彼女の場合は「かたいこ」となりますね。
では父親は誰か?
『光る君へ』の第10回放送で、主人公のまひろ(紫式部)と藤原道長が結ばれ、さらには石山寺で夜を共に過ごし、そのとき身籠ったという展開でしたが、それはあくまでドラマならではの話。
実際は、別の人物が父親、ドラマと同じく藤原宣孝です。
劇中では軽薄で商才に長けた人物ですが、史実の大弐三位は、紫式部の血を引くだけあって和歌が百人一首にも選ばれる才媛として成長をします。
ドラマでは岸谷五朗さん演じるまひろの父・藤原為時から教育を施されたのも良かったのでしょう。
では、そんな文学エリートな才人たちに囲まれた大弐三位とは、一体どんな女性に育っていったのか?
その生涯を振り返ってみたいと思います。
※以下は紫式部の関連記事となります
紫式部は道長とどんな関係を築いていた?日記から見る素顔と生涯とは
続きを見る
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
父は宣孝 祖父は為時
大弐三位は長保元年(999年)頃、紫式部の娘として生まれました。
父親は公家の藤原宣孝。
大河ドラマ『光る君へ』では佐々木蔵之介さんが演じる、ちょっとノリは軽いけどよく気がつく、女性にはモテそうなタイプですね。
藤原宣孝は紫式部の夫だが~ドラマのように娘・大弐三位の父親ではなかった?
続きを見る
劇中の様子からもわかるように、史実でも2人はかなりの年齢差。
そのため、大弐三位が生まれてすぐの長保三年(1001年)に宣孝は亡くなってしまい、きょうだいはいなかったと思われます。
それから5年後の寛弘二年(1006年)、母の紫式部が藤原彰子のもとへ出仕したため、大弐三位は祖父・藤原為時の手元で育ちました。
宮仕えしたからといって実家に戻れないわけでもなく、母子の交流が途絶えたわけではないはず。
しかし、寛弘五年(1008年)に彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を産んだ頃、宮中のことなどは『紫式部日記』に記されていますが、娘の大弐三位については特に記載はありません。
この辺、ドラマでどんな風に描かれるか楽しみですね。爺爺になった岸谷為時は、孫に漢文を教えたりするのか……。
大弐三位には、他にも「藤三位(とうのさんみ)」とか「弁の乳母」、あるいは「越後の弁」などの呼び名があります。
「越後の弁」というのは祖父・為時の官職だった越後守からとられた呼び名ですね。
藤原為時(紫式部の父)は融通の利かない堅物役人だった?越前守の後はどうなる?
続きを見る
恋のお相手は錚々たるメンツ
大弐三位が頭脳明晰だったのは間違いないようで、彼女も長和六年(1017年)頃、母の跡を継ぐような形で彰子のもとへ出仕します。
その頃には母の傑作『源氏物語』が宮中や公家の人々に広まっていたようですので、大弐三位に向けられる視線もかなり熱いものだったでしょう。
普通ならば、緊張して胃が痛くなるか、あるいは親の七光りを利用して威張り散らすか……。
しかし大弐三位はそのどちらでもなく、しっかり仕事をしつつ恋愛も楽しむ、公私共に充実した生活を送るのです。
この辺、紫式部とはかなり違うタイプのように見えますね。
大弐三位の恋のお相手だったとされる人は、
など、錚々たるメンツが並びます。
特に定頼との間には和歌を絡めたエピソードが複数伝わっています。
定頼は藤原公任の息子で、和泉式部の娘である小式部内侍をからかって見事な歌で撃退された人。
そちらの逸話でご記憶の方も多いかもしれませんが、今回は大弐三位との話を見ておきましょう。
※続きは【次のページへ】をclick!