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【阿倍仲麻呂】
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李白と友達とかワールドクラス
35年もいたのですから唐への思い入れも深かったでしょう。
同時に、日本も当然懐かしい。
阿倍仲麻呂との別れを惜しんだ友人たちが開いてくれた送別会だったそうなので、
「私は帰るからもう会えないけど、同じ月を見られるんだから、たまにはお互い思い出そうよ」
という気持ちもあったのかもしれません。
実は、この友人たちの中に、李白など中国の超有名文化人がいたのですから凄い。
李白といえば、中国史上最高の詩人と言われています。
仲麻呂はこの歌を詠んだ後、帰途へつくのですが、船が難破してしまい結局日本へ帰ってくることはできませんでした。
海に投げ出されなかっただけまだ良かったのかもしれませんが、がっかりしたでしょうね……。
先に書いたように、その後、皇帝から自治を委託されたベトナムの王となったのです。
結局、唐の都・長安で70代で亡くなりました。
なぜ道真は遣唐使を廃止にしたのか
その後、200年近くに渡り、日本は、中国から学んだ文物をもとに独自の文化を生み出す下地が整いました。
ちょうどその頃、唐では内乱が起き非常に危険な状態になります。
ここで「そろそろやめにしない?」と提案したのが菅原道真。
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「行くだけでも遭難するかもしれないのに、上陸してから戦に巻き込まれでもしたら意味ないでしょう? もういろいろ勉強できたし、やめましょうよ」と極めて現実的な理由を述べたのです。
これに納得した朝廷は遣唐使を停止しました。
ただし、実際は道真が「俺って最新の中国文化の達人だよ」とあんまり胸を張るものだから、じゃあ「遣唐使やってみる?」と大使に任命してみたら、道真自身が「もう中国に学ぶものはありません!キリ」と手のひらを返したような対応が真相だったという説もあります。
なんだかこっちのほうが生々しくて思わず納得ですよね。
ちなみに
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
は仲麻呂のオリジナルではなく、
万葉集にある
「天の原 ふりさけ見れば 大君の御寿(みいのち)は長く 天足らしたり」
というのがオリジナルですね。
なお、遣唐使が廃止されても、日本の貴族が中国からの輸入品に頼っていた状況に変わりなく、交易自体はなくなっていません。
大河ドラマ『光る君へ』に登場する装飾品などにもそうした影響が見られており、その詳細については以下の記事をご参照いただければと存じます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
世界大百科事典
日本人名大辞典
阿倍仲麻呂/wikipedia