政争が続き、殺伐とした日常を隠さない大河ドラマ『光る君へ』。
結局、平安時代も全く優雅じゃないよな……そんな印象をお持ちの方も多いと思われますが、第34話では「これぞ貴族!」という場面が流されました。
「曲水の宴」です。
藤原道長により土御門邸で開催されたこの行事。
庭に作られた人工の川の流れにのって鴨の人形が流れ、貴族たちは酒をたしなみながら詩も詠む――まさに日本の美が凝縮されていて、目を奪われた方も少なくないでしょう。
しかし、この行事は日本が発祥ではありません。
本年9月からNHKで『三国志 秘密の皇帝』という長編ドラマが放送されていますが、このドラマでは曹操主催による「曲水の宴」の場面があります。
元々は中国で、古来より愛されてきた伝統行事だったのです。
ただし『三国志 秘密の皇帝』ではこの行事で暗殺をめぐる攻防が繰り広げられ、道長と曹操という、両国の偉大な権力者たちの違いが浮かび上がる、象徴的なシーンにもなっています。
いったい曲水の宴とは何なのか?
起源はどこにあるのか?
史実面から振り返ってみましょう。
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曲水流觴:水辺で楽しむ中国古代の行事
曲がりくねった水に觴(しょう・酒器)を流す――そんな意味から中国では「曲水流觴(きょくすいりゅうしょう)」と呼ばれてきたこの行事。
数ある伝統行事の中でも最古といえるほどの歴史を持つだけに、起源も諸説あり、少なくとも周代には存在したとされています。
中国最古の詩集であり、孔子が編纂したとされる『詩経』にも、流れる水のそばで男女が語り合い、戯れる様が収録されているのです。
漢代になると、この行事は三月の上巳に行うものとされてゆきました。
水辺に集い、身を清め、穢れを払う禊をする。そのついでに飲食を楽しむようになっていったのです。
ここまでは自然発生的で、素朴な行事であった時代といえます。
川べりで春の訪れを喜ぶ人々が語りあう。
体を洗い、穢れを落とす禊を済ませる。
女子の場合、禊を済ませることで不妊を治療する目的が重視されました。ゆえに、この行事は後に女性性と結び付けられていったとされます。
『光る君へ』での道長は、娘であり一条天皇の中宮である彰子の不妊に悩み、それを解消する意味もこめて開催。
日本ではこの節句に人形を流す「流し雛」が始まり、やがて雛人形を飾り、女子の幸せな結婚を願う「雛祭り」へと進化してゆきます。
伝説の『蘭亭序』が生まれた
東晋の永和9年(353年)、会稽山麓の名勝・蘭亭にて、伝説の「曲水の宴」が開催されました。
有力貴族の一人であり、書の名人である王羲之が、名士42名を招いて詩を詠み、この宴を楽しんだのです。
そして、ここで詠んだ詩37篇がまとめられました。
自分の順番で詩が詠めないと、罰として酒をクイっと飲み干さねばならない――そんなルールがあったので、中には無茶苦茶な作品もあり「残さないでくれ」と収録を断るようなこともあったとか。
王羲之もまた酔いに任せつつ、詩集の序文を書きました。
わずか「28行・324字」で描かれたその序文は、あまりに美しい文字でした。
酔いが覚めたあと、王羲之は清書しようと考えましたが、どうしても草稿以上の出来栄えにならない。
かくして草稿のまま残されることとなりました。
王羲之は書道史において最も重要な、伝説的な存在といえます。
紙と筆による記載が普及してゆく過程で「書道」を編み出した存在とされたからです。
それほどの人物が、酔いに任せて走らせた字がこの上なく美しい。これはまさに天意が降り立ったような神秘的な出来事として記憶されました。
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他の文化は廃れても曲水の宴は残された
時代が降り、中国史上最大の名君とされる唐太宗の時代。
書を愛する太宗は王羲之の作品を集めました。
所有者を騙すようなことをしてまで『蘭亭序』も入手し、自らの墓である昭陵に納めさせます。
結果、『蘭亭序』はこの地上から消えたも同然。現在、王羲之真筆の作品は無く、いま残されているものは模写となります。
しかし、伝説的な書が誕生した「曲水の宴」は、文化の精髄として伝えられてきました。
これは実に重要なことと言えるでしょう。
なにせ中国は、漢族以外の王朝が治めることもあり、島国の日本よりも文化の隆盛が激しい傾向がある。
『光る君へ』に出てきた打毱、貴族の遊びとしておなじみの蹴鞠は、中国由来ながら歴史の中に消えてしまいました。
蹴鞠はあまりに流行しすぎたため、厳格な明太祖が綱紀粛正のため禁止令を出したほどです。
満洲族の清朝が成立すると、これに習い蹴鞠はまたもや禁止。
代わりに満洲族が好むスケートが導入されました。
曲水の宴はどうか?
というと、文化振興のためかこれが残されます。
中国の皇帝は文化を重んじます。たとえば清の乾隆帝は書を好み、名品があると自らの印を押しながら絶賛したほどでした。
そんな乾隆帝は、王羲之とゆかりの深いこの行事をむしろ愛でたのです。
日本では奈良時代に、王羲之が楽しんだ魏晋以降の形式で伝わりました。
それがいつしか朝廷の行事として定着してゆき、『万葉集』はじめ多くの歌集にこの宴で詠んだ作品が収録されています。
時代が降ると朝廷の外にも広がり、文化の象徴として武家が開催することもあったほど。
現在でも太宰府天満宮や各地の神社で開催され、行事としてすっかり根付いたといえます。
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