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【藤原頼宗】
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兄と差がつく出世の道
詮子の「四十の賀」の3年後、寛弘元年(1004年)、巌君は元服して藤原頼宗となりました。
この前年に長兄の田鶴は元服して藤原頼通と名乗り【正五位下】に叙せられています。
一方で、頼宗は【従五位上】です。
↑
従四位下
正五位上
正五位下:頼通
従五位上:頼宗
従五位下
正六位上
↓
兄弟間で差をつけたい道長の意向ありきでしょう。
その後は露骨に出世競争での不利が影響してきます。
◆頼宗
寛弘2年(1005年):侍従から右兵衛権佐
寛弘3年(1006年):正五位下
寛弘5年(1008年):従四位下
兄は以下の通り。
◆頼通
寛弘3年(1006年):従三位に叙せられ、公卿に列し、さらに正三位へ
寛弘5年(1008年):従二位
ご覧の通り、あからさまに兄が上です。
頼宗にしても、まだ二十歳にもならぬ若さでめざましい出世ですが、兄には及びません。
しかも、その原因は彼自身ではなく、母の血統と父の意志にあるのですから、なんと恐ろしい閉塞感なのでしょう。
当時は、血統だけで出世まで決められ、適材適所など問わない、無茶な人事が横行していました。
そして迎えた寛弘5年(1008年)、この兄弟の栄華を決定付ける慶事がありました。
異母姉・中宮彰子が皇子を産む
源倫子と藤原道長の住まいである土御門は、またも栄光と歴史の舞台となります。
一条天皇のもとに道長と倫子の間に生まれた彰子が入内して中宮となり、寛弘5年(1008年)、念願の皇子を授かりました。
その皇子の「五十日の宴」の最中、道長は失言してしまいます。
「私は、中宮の父としてなかなかだよね。中宮も、私の娘としてなかなかでしょう。中宮の母も運がよかったと笑顔だね。いい夫を持ったと嬉しいんじゃないか?」
これを聞いた倫子は喜ぶどころか腹をたて、立ち上がり、その場を即座に去っていきました。
道長はそそくさと立ち上がります。
「お部屋まで送らないと、母上は怒ってしまう。中宮様、失礼とお思いくださいまするな。親あっての子ですからね」
そう言い、彰子の御簾を突っ切って倫子を追いかけたのでした。
いったい倫子は何に怒ったのか?
道長がここまで出世できたのは、道隆と道兼という兄二人の夭折という運もあったにせよ、倫子の土御門あってのこと。
そもそも彰子が子を産み、この宴が開催される場は土御門です。
この宴の半月前、一条天皇が土御門を行幸し、倫子は従一位を授けられました。当時の道長は正二位。
良い夫?
いやいや、良い妻を持ったのはむしろ、
あ!
な!
た!
と、主張するような態度ですね。
しかも道長は、そんな倫子に怒るどころか、気遣う態度を見せていたのです。
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