藤原頼宗

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

道長と明子の第一子・藤原頼宗は兄の頼通に差をつけられて育つも充実した生涯だった

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兄弟それぞれの妻

兄弟の格差は、出世だけでもありません。

妻の血筋を重視する道長は、我が子の妻にも注意を払います。

藤原頼通には、思いがけぬ縁談が持ち込まれました。村上天皇の第七皇子である具平親王から、娘の隆姫女王との縁談が持ち込まれたのです。道長は大喜びしました。

一方、藤原頼宗の妻はどうか?

というと、嫡妻は、藤原伊周の娘です。

藤原伊周/wikipediaより引用

『光る君へ』をご覧になられている方でしたら「あの伊周かー!」とでも言いたくなるでしょう。

道長の兄・道隆の長男であり、一条天皇が愛した皇后定子の兄でありながら【長徳の変】で失脚し、道長への恨みを抱いて死んだ姿が描かれましたが、実際、道長暗殺計画や呪詛事件で関わりが噂されたものです。

そんな伊周も寛弘7年(1010年)に死亡。

父の後ろ盾を失った伊周の子たちは、恵まれぬ人生を送るしかありません。

嫡男の藤原道雅官位こそ上がれども重要な職にはつけず、その鬱屈もあってか「荒三位」と称されるほど失意の人生を送っています。

藤原道雅
伊周の長男・藤原道雅は「荒三位」と呼ばれた乱暴者だった? 真の姿は?

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そんな伊周の娘を、頼宗は嫡妻としているのです。

純粋な恋愛感情で選んだのでしょうか。

万が一、そうだとしても、我が子の妻の血統を重視する道長が口出しすれば成立しなかった縁談とも思えます。

この夫妻は三男三女に恵まれます。

伊周の血統は、頼宗を通して残されることになりました。

 


むしろ兄より幸せかもしれない

兄と比較し、期待されないだけに、出世は遅れた藤原頼宗。

ただし、そのことは婚姻関係において政治の影響を受けにくく、兄の藤原頼通より幸せだったのかもしれません。

『栄花物語』には、こんな生々しい話が掲載されています。

先代の一条天皇よりも、道長と衝突することが多かった三条天皇は、頼通との婚姻を通して打開をはかります。

皇女である禔子内親王を妻にするよう説いたのです。

しかし、隆姫をこよなく愛する頼通はよい顔をしません。とはいえ、その愛妻との間に子が生まれず、道長はこう迫ります。

「男がどうして妻一人に留めることがあるのだ! 世継ぎもおらんというのに」

父にプレッシャーをかけられ、しぶしぶ縁談を受けようとする頼通は、重病に罹ってしまいます。

しかも調伏の結果、隆姫の父である具平親王が怨霊と化していたとのことで……かくしてこの縁談は沙汰止みとなってしまう。

頼通に皇女を嫁がせたい周囲の思惑が、この不幸な状況を生み出しました。

頼宗は嫡妻に先立たれたとはいえ、なかなかの艶福家であったようで。

軽妙な和歌を得意とし、血筋も申し分もない。

さらには甥にあたる後一条天皇の時代となると、寛仁元年(1017年)皇太后宮権大夫として、異母姉の皇太后・藤原彰子に仕える身となりました。

彰子サロンを束ねる役目であり、そこにいる女房の袖を引く好機にも当然のことながら恵まれています。

彰子のサロンには、才気あふれる女房が数多おります。

彰子サロンで働く紫式部の同僚女房たち

画像はイメージです(『源氏物語絵巻』/wikipediaより引用)

紫式部の娘である大弐三位(賢子)。

和泉式部の娘である小式部内侍。

頼宗は、彼女らの恋人として浮き名を流すのです。

兄の頼通は、道長の後継者として、叱咤激励されることも多い。

頼宗はその兄のサポート役であるため、矢面に立たずに済む。

屈辱的どころか、実は一番おいしいポジションを確保できていたのかもしれません。

 


父の没後、変わりゆく時代と向き合って

藤原頼宗は以下のように五代の天皇に仕えます。

一条天皇

三条天皇

後一条天皇

後朱雀天皇

後冷泉天皇

自身の官位は、父の道長や兄の頼通と並ぶ従一位となり、右大臣にまで出世。

康平8年(1065年)に享年73で亡くなったその生涯は、幸運に恵まれたものともいえました。

頼通と頼宗の兄弟は、実は大河ドラマ初出演ではありません。

1993年『炎立つ』に出ています。

奥州藤原氏を主役とするこのドラマでは、はるか遠く、京都にいる公家の頂点に立つのがこの兄弟だったのです。

毛越寺に所蔵されている奥州藤原氏・三衡(上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡)/wikipediaより引用

道長の世のあと、武士の台頭が起きるからこその出番とも言えるでしょう。

頼宗の孫にあたる藤原全子は、藤原師実との間に忠実を産みました。

この忠実と、その二男・忠通、三男・頼長の争いは、【保元の乱】という戦闘にまで巻き込まれてゆきます。

そして保元元年(1156年)、頼長は首の傷が原因で没してしまいました。

藤原氏長者にまでのぼりつめた公卿が、外傷により命を落としたいわば“異常事態”です。

頼宗の死からおよそ一世紀、平安貴族の世は崩れ、武士の世が迫りつつあったのでした。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
山本淳子『道長ものがたり』(→amazon
山中裕『藤原道長(人物叢書)』(→amazon

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