もしも藤原道長の息子として生まれるならば、母は源倫子がよいか、それとも源明子がよいか?
実際に跡継ぎとなった藤原頼通は倫子の長男ですので、多くの方がその路線を望まれるかもしれません。
しかし、人としての幸せを考えた場合はどうか。
源明子の長男であり、道長にとっては次男となる藤原頼宗。
彼は、異母兄である頼通の陰に隠れ、日本史においてはほとんど無名の存在ですが、振り返ってみれば兄のようなプレッシャーもなく、最終的にはかなりの出世も果たしています。
大河ドラマ『光る君へ』では上村海成さんが演じ、ようやく日の目を見るようになった藤原頼宗。
一体どんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
詮子「四十の賀」で舞う兄弟
藤原頼宗は正暦4年(993年)の生まれ。
父は藤原道長で、母は源明子です。
二人の間に出来た男児としては長男ですが、父の道長には別の嫡妻・源倫子がいて、倫子との間にできた男児・藤原頼通が先に生まれていました。
母の明子も、倫子も、同じ源氏の血筋でありながら、倫子の方が立場が上。
明子の父・源高明は政変で流罪にされてしまい、明子の経歴には傷とされたのです。
※以下は「源明子」の関連記事となります
源明子は道長の子を6人も産んでいた~高貴な血を引く子供たちは順調に出世できた?
続きを見る
このことは子供たちにも伝わりました。
頼宗は、異母兄の頼通とわずか一歳の違いながら、母の血筋で明暗を分けてゆくのです。
頼宗の人生をたどるうえで、興味深いシーンが大河ドラマ『光る君へ』にもありました。
長保3年(1001年)10月9日に行われた藤原詮子の「四十の賀」を祝う場面です。
詮子とは、一条天皇の母であり道長の姉でもありますが、このとき、まだ元服前の田鶴(たづ・後の頼通)と、巌君(後の頼宗)が共に“舞”を披露しました。
軽やかに舞う弟に対し、兄は失敗。
子供たちの姿を見て、頼宗の母・明子は誇らしげ、頼通の母・倫子は悩ましい顔を浮かべました。
舞を見た一条天皇も巌君に感心し、舞の師匠に従五位下を与えます。
すると、道長が不快感を示したのです。
一体何事か?
というと、道長が「倫子の子」を特別視していたのですね。
このことは藤原実資の日記『小右記』に書かれており、ドラマでもそれをアレンジしたのでしょう。
母の血統により子の明暗が示される――実に意義ある場面と言える。
まだ10歳にもなっていない。
元服すらしていない。
そんな段階で、兄弟の明暗はすでに別れていたのです。
「男は妻柄(めがら)なり」双系制の体現者・道長
なぜ藤原頼宗は幼少の頃から兄の藤原頼通に差をつけられしまったのか?
というと藤原道長の「出世論」を受けてのことでしょう。
彼は【双系制】の体現者といえます。
【双系制】とは、男系と女系、両方の血統を重んじる制度であり、古今東西、実は【双系制】の方が継承を盤石にすることができました。
子が幼いうちに父系、母系どちらの家も頼ることができるほうが生存率が高くなるからです。
時代が降るにつれ、どちらか一方が重視されるようになることもしばしば見られ、実は道長の父と兄は、必ずしも妻の家柄を重視していません。
以下のように
と、そこまで身分が高くないのです。
しかし、父である藤原道兼の妻たちの感情を見ていくと、道長の妻たちの感情も推察できます。
道兼のもう一人の妻は、藤原時姫と身分がさして変わらない藤原道綱母でした。
もしも圧倒的な身分差があれば、感情的にならず割り切れたのかもしれません。
結局、藤原道綱母は「他の妾とは違う」という誇りを持ち続け、時姫にも自分の存在をアピールしたことが『蜻蛉日記』には書かれています。
道長の妻である源倫子も、源明子も、天皇の血を引く高貴な血統。
むしろ三男である道長にとっては、高嶺の花とすらいえました。
源明子は父が政変により零落しており、疵がある。
一方の源倫子は入内も狙えたほどの姫君ですが、タイミング悪く、そうならなかった。
ときの天皇が、荒淫で悪名高い花山天皇だったため、「わが姫だけは入内させまい!」と渋る貴族は源倫子の父だけではなかったのです。
結果、花山天皇が退位した後、一条天皇に入内するには、倫子は年齢が離れすぎていました。
ならばどうするか……。
と、そこでにわかにあがってきたのが道長ですが、倫子の父である源雅信は、当初、良い顔はしませんでした。妻の穆子が推したからこそ、認めたようなものです。
かくして婿となった道長は、土御門の立派な屋敷と資産を手中に収めます。
詮子の「四十の賀」も、この土御門を会場として行われました。
そうした状況を踏まえれば、道長が倫子の顔色を伺い、明子の子である巌君を褒めた一条天皇に不快感を示した気持ちは理解できなくもありません。
※続きは【次のページへ】をclick!