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【太宰府】
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道長も、実資も、宋人の長期滞在はやむなしとした
当時の朝廷も、全く危機意識がなかったわけでもありません。
貿易をなし崩し的に進めるわけにはいかないという建前はありました。
延喜11年(911年)には【年期】という制度が設けられています。
【年期】という一定期間を超えた場合、「安置」(滞在)を認めず、「廻却」(帰国)させるというもので、長年居続けて移住してしまうようなことを防ぐことができます。
なんとなく居座り、居住されてしまってはならないという意識はあったのですね。
しかし、当時の貿易は“風”が重要です。
宋人は帰国するにしても「はい、そうですか」と簡単には動けない“海の事情”がありました。「風を待っている」と言われたらどうするのか。
商人が来着すれば【陣定】で公卿による評議が行われます。いつまでも「安置」しているとなると、これまた評議となるのです。
では実際はどういう経緯を辿ったか。
寛弘2年(1005年)、違反した宋商人・曽令文について【陣定】で話し合われたとき、道長の意向で「帰国させなくてもよい」となりました。
前例主義のお堅い藤原実資は、そのことを日記で批判しているのかと思えば、そうでもありません。
「最近、内裏が焼けて唐物がかなり燃えてしまった。年期違反だろうがそこは目を瞑り、きっちりと交易すれば問題ないだろう」
ルールよりも実利を重視しているのです。
『光る君へ』では第32回にあたる時系列ですね。
ドラマでは、火事で逃げ遅れそうになった彰子を一条帝が手を引いて逃げる場面がありました。
劇中の道長を思い出すと、そのころは一条帝と彰子の仲のことで頭がいっぱいで、確かに宋人など「問題がなければどうでもよい」と思っていたフシがあります。
相手もこのつけこみやすさを理解しております。
日本人に対しては「徳がある」とへりくだって手懐ければどうにでもなる――そう理解していたようなのです。
『光る君へ』の太宰府の場面でも、そのことは把握できます。
貿易が目的なら博多港でも問題ないはずなのに、宋の商人は政庁に多数出入りしていました。
平為賢は、賄賂を要求しない藤原隆家を褒める際、この土地では「まいない」が横行しているとも述べました。
あの場面から普段は贈収賄が横行していた事情が伝わってきます。
複数あった対外貿易ルート
こうしてみてくると、宋商人はあまり真剣に取り締まらなくともよかったと思えます。
そもそも中国は日本を攻撃する発想が歴史的に薄い。
持ち込みたい関係は【朝貢】が最善で「安全な交易ができれば慈善」というところでしたので、道長たちがユルい対応を取っていてもありかとは思えます。
しかし、その甘さが【刀伊の入寇】につながったのでは? とも思えてきますが、正しくもあり誤りでもあるでしょう。
太宰府ができたころ、古代の貿易ルートは、複数ありました。
彼らが今でいう何人なのか? それは掴みにくいものがあります。
交易を行うものの出身地か、血統か、あるいは商品の産地か。特定が難しく、当事者もそこまで厳密に区別ができていません。
現代人が考える国境や民族というものは、近代以降強固になったものであり、かつて境界線は曖昧でした。
そして、こうした交易ルートは、該当地域の政治事情により、対応も変化してゆきます。
例えば「唐」については【安史の乱】という大激動や滅亡に伴う影響があり、【遣唐使】も政治動乱の中で派遣が途絶えたまま尻窄みになったと言えるでしょう。
唐の後は、おおよそ半世紀にわたる【五代十国時代】を経て、宋が成立。
『光る君へ』は、まさにこの宋の時代となります。隣国の政治が安定したことは、日本にとっても喜ばしいことでした。
たとえ遣唐使が途絶えても、中国に渡りたい日本人は当然います。特に熱心だったのが仏僧でした。
本場で仏教を学びたい。
日本で解決できない問題は、本場に答えを聞きたい。
そう考え、朝廷の許可を得ようとする者がいれば、密航する僧侶も出てきます。
かくして公的な交流ではない、密航も含めた民間交流が続いたのです。
公的な交流としては室町期の【遣明使】まで待つことになりますが、これは短期間で終わりました。
商人も利益を求め渡海を志向し、航海技術の向上とともに【倭寇】が猛威を振るうこととなります。
新羅は高麗へ交替しますが、こちらも日本とは交流があります。
『光る君へ』では、敵を追撃する平為賢に対し、藤原隆家が「対馬の海を越えるな」と厳命していました。
対馬の向こうは高麗であるという認識があったからで、もしもそこを越えると、高麗との戦闘状態に突入しかねない状況があった。
ゆえに隆家はそれを防ぐべく、厳命していたといえます。
【刀伊の入寇】での日本の戦闘範囲は、あくまで対馬まで。高麗へと逃亡し、そこで迎撃されたとみなされます。
中国東北部と日本の関係
実に悩ましいのが渤海ルートです。
渤海国は7世紀から10世紀にまで存在。
10世紀前半に滅亡した影響が『源氏物語』にも表れていると思える箇所があります。
光源氏が情けを交わすものの、個性的な言動や容貌から滑稽に描かれる女君・末摘花です。
彼女のおかしなエピソードとして「黒貂の毛皮」が挙げられる。
若い女がそんなものを着てどうするのか、かといってなければ寒そうだと、光源氏がそのセンスに呆れるのです。
この黒貂の毛皮こそ、中国東北部の特産品でした。
『源氏物語』の舞台設定は、一条朝の百年ほど前とされ、物語の設定では渤海国は滅亡へ向かっていることになります。
作者の紫式部や当時の読者からすれば、黒貂の毛皮は滅亡した国の流行遅れの品で、奇妙な印象を受けることでしょう。
渤海国が滅びてしまうと、国家の管理を受けた正式なルートでの貿易は途絶えます。
代わって政権の目を気にしない、一攫千金を狙う者たちが跋扈し始める。
【刀伊の入寇】の「刀伊」とは、高麗から見た「東夷」とされ、東除親族ではないか?と目されています。
国が滅び、統制を失った者たちが日本を襲来――それが【刀伊の入寇】でした。
10世紀から12世紀にかけて、朝鮮半島からみて東、中国東北部には遼が建国され、その遼の侵攻により、宋が南遷します(1126年【靖康の変】)。
北部を失った南宋との交易を掌握し、巨万の富を築き上げたのが平清盛。
こうして振り返ると、『光る君へ』でまひろが太宰府までゆき、【刀伊の入寇】に遭遇することはアリなのではないか?と思えてきます。
当時、女性が都から太宰府まで向かうことは無理があります。
そうはいっても、テーマや歴史の流れをみていく上では悪くない。
『光る君へ』は、初回で藤原道兼がまひろの母・ちやはを刺殺しました。
いくらなんでも当時の貴族がそこまでするわけがないという困惑が広がったことは確かです。
そもそも、まひろと道長の関係も、あまりに無茶苦茶ではないかという批判はあります。
しかし、ストーリーを動かし、歴史を学ぶ目線を広げることを配慮した逸脱ともいえる。
単なるウケ狙いや意外性のためではなく、考え抜かれた末に逸脱をする、そんな作劇でした。
最後を彩る太宰府は、ドラマの舞台としてだけではなく、歴史をみる意義を考えても、実に重要な場所といえます。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
石井正敏『東アジア世界と古代の日本 (日本史リブレット 14)』(→amazon)
赤司善彦『大宰府跡 古代九州を統括した外交・軍事拠点 (2) (新日本の遺跡2)』(→amazon)
榎本渉『選書日本中世史 4 僧侶と海商たちの東シナ海 (講談社選書メチエ 469 シリーズ選書日本中世史 4)』(→amazon)
他