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『源氏物語』における太宰府
藤原伊周の流罪は『源氏物語』において光源氏が須磨へ向かう姿に影響を与えたともされます。
上級貴族にとって都を離れることは絶望的なこと。
当時は平安京で暮らすことが貴族生活の基本であり、
政権中枢にいた伊周や光源氏にとって、都を離れることは悲劇でしかありません。
しかし下位の貴族となると、その事情は変わります。
隆家が眼病をキッカケとしていたのに対し、行成は、それが本心かどうかは不明ながら「富のための赴任」として自ら願い出ていました。
もっと下位である、紫式部や清少納言の出身階層となると、太宰府赴任はさらなるビッグチャンスとなりえます。
それを示すのが『源氏物語』「玉鬘十帖」です。
物語の構成を簡単におさらいしておきますと……。
『光る君へ』では「桐壺」から執筆されていました。一条帝と定子の悲恋をモチーフとした序盤が内裏をざわつかせるプロットです。
ただし『源氏物語』が実際に「桐壺」から執筆されたかどうかには、諸説あります。
【石山寺伝説】では、琵琶湖に映る月を見ながら、
「須磨」から書いたとされていましたが、これはあくまで伝説とすることが現在では一般的。
では現在、有力な説とは何か?
それは若き光源氏が軽い恋物語を展開する「帚木三帖」辺りからではないか?というものです。
軽い読み物としてヒットする手応えを得てから、エピソードゼロに入るようにして「桐壺」へ進んだという考え方ですね。
現代の漫画雑誌でも連載前に読切作品として掲載されたり、海外ドラマのパイロット版が放送されたりするようなもので、確かに説得力はあります。
執筆の経緯は諸説あるとして『源氏物語』にはメインプロットと、サブプロットの二系統があります。
A系・B系、あるいは紫の上系・玉鬘系といった呼ばれ方をされていて、「玉鬘十帖」はサブプロットとなる。
『光る君へ』の構成も、これと似ていると思えます。
ソウルメイトである道長との関係を中心としたメインプロット。
それ以外であっても、まひろの人生を構築していくサブプロット。
系統が分かれて進んでいくとも思えます。
突如として太宰府に行き、【刀伊の入寇】にまひろが出くわす展開は「トンデモだ!」という戸惑いの反応もありました。
しかしこうして考えてくると、実は練られた巧みな展開ではないかと思えてきます。
「玉鬘十帖」で重要な役割を果たす太宰府
「玉鬘十帖」をおさらいしましょう。
「帚木三帖」の「夕顔」において、光源氏は夕顔という女君と情を交わします。
夕顔は若くして亡くなるものの、彼女と頭中将との間には幼い娘がいました。
太宰府で夕顔の乳母により育てられたこの姫君は、大層な美女に成長し、「玉鬘」と呼ばれることになります。
そんな玉鬘に対し、大夫監という豪族がストーキングまがいのことをしてくる。
「このままでは危うい」と考えた乳母は、玉鬘を連れて都へ逃げてくるのでした。
玉鬘は光源氏の庇護を受け、光源氏は娘ほど年下の玉鬘に性的虐待まがいの酷いことを続けます。さらには、玉鬘が美しいという噂を貴公子たちの間に流し、恋愛ゲームのトロフィー扱いをしました。
本作は『源氏物語』と重なるプロットがあります。最終盤にきて、幾重にも糸が張り巡らされたように思えます。
まひろから賢子が実の娘だと聞かされた道長は、じっとりとした目で賢子を見ています。その不穏な目つきは、玉鬘を値踏みしていた光源氏を連想させなくもありません。
そして、道長に対し、キッパリと腐れ縁を断つと告げるまひろ。その姿は薫に対する浮舟のようにも見えます。
はるばる海を超えてまでしつこい男から逃れる様は、玉鬘と重なるようにも思えます。
玉鬘は逃げた先で、別の男君と偶然出逢います。まひろも太宰府で、偶然周明と出逢う。
まるで「玉鬘十帖」を逆回転したようにも思えなくもありません。
当時の対外危機管理はどこかゆるい
私は『光る君へ』を見ていて、道長の政治姿勢に疑念を覚えることがありました。
「越前編」では、藤原為時を派遣することで、日宋交易の刷新をはかったように思える箇所もありました。
しかし、どうにも曖昧な指示を出すばかりで、為時は困惑するばかり。
そしてまひろが越前から京に戻ると、宋との問題を忘れたように思えます。
実資の邸には宋経由で来たであろう鸚鵡がいるし、妍子はどう見ても宋渡来の品をうっとりと眺めては買い漁っていました。
宋との交易なくして貴族の生活は成立しない。ならばその引き締めを行うのか?というと、そうでもない。
仮に、ドラマの中で藤原道長が日宋貿易に取り組んだら、さすがに歴史修正となってしまう。
実際の藤原道長は、対外政策の見直しをしておりません。
ドラマで宋人に目を光らせていたのは、美男の周明がまひろの周囲をうろついていたからなのか?と勘ぐりたくなります。
「越前編」が終わると、一条帝と彰子をいかにして結びつけ、道長外孫となる天皇を生み出すか――ドラマの中心はそこへ移りました。
それが終わってからの最終盤・太宰府において、当時の朝廷がいかに受け身であったか、示すアイテムが登場します。
抹茶です。
まひろが隆家から勧められる茶は、薬にもなる素晴らしい飲料だと紹介されました。
しかし、内裏では誰も飲んでおりません。
道長が酒の代わりに茶を飲んでいれば、飲水病(糖尿病)を防げたかもしれないのに、そうはならなかった。
史実においては、茶は京都まで伝来しています。
しかし、それを定期的に取り入れようとまでは考えず、一過性の奢侈品として消費して終わりました。
もしも本気で日本に茶を根付かせようと思うのであれば、苗木を持ち込み、栽培するという手段がありますが、当時はまだそういう発想がない。鎌倉時代の栄西まで待たねばなりません。
輸入できるならば、それでよい――これが当時の認識。
言い換えれば、とても弛緩し切った態度ともいえます。
必需品の輸入が途絶えたらどうするつもりなのか?
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