崇徳天皇

崇徳天皇(左)と怨霊になった崇徳天皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

なぜ崇徳天皇は怨霊扱いされてしまうのか?あまりに痛々しいその生涯を振り返る

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
崇徳天皇
をクリックお願いします。

 


今度もまた弟が即位して院政の機会を奪われる

鳥羽天皇がゴリ押しした近衛天皇は生まれつき病弱で、わずか17歳で崩御。

すると、崇徳天皇の息子・重仁親王はハブられ、崇徳天皇からすればもう一人の弟にあたる後白河天皇が即位することになったのです。

後白河天皇(後白河法皇)/wikipediaより引用

本来の順序であれば重仁親王が即位するのが筋ですが、それを見事ひっくり返したわけですね。

もちろん鳥羽天皇の意向でした。

上皇として院政をするには、現役の天皇が直系の子供や孫でなくてはなりません。

つまり、弟が皇位についた時点で崇徳天皇が院政をする機会はなくなってしまったことになります。

「父上はそこまでして私を追い出したいのか!」

崇徳天皇が怒りと恨みを募らせていったことは想像に難くない状況。

このイジメっぷりからしてどう考えても鳥羽天皇のほうが悪い気がするんですが、なぜか後世(現在も?)怨霊として悪く言われるのは崇徳天皇のほうだという……理不尽なものです。

まぁ、当時はDNA鑑定とかないですから思い込みに勝るものはないんですけども。

 


なぜ怨霊になったとされているのか

話を戻しまして、最終的に「怨霊」と言われてしまうようになった直接の原因についてお話しましょう。

上記の経緯から、当然、崇徳天皇と後白河天皇の兄弟仲は険悪もいいところでした。

そんなタイミングで、火種の鳥羽天皇が亡くなったのでさぁ大変。

こうなると、周りのよからぬ輩がどっちかについて面倒を起こすのはもはやテンプレです。

新しく台頭してきた武士達。

そしてその筆頭に当たる源氏と平家の内部争いがくっついて、ついにドンパチにまで発展したのが保元の乱でした。

『保元・平治合戦図屏風』左上の黒い鎧が平清盛/wikipediaより引用

乱のきっかけは、鳥羽天皇が亡くなった際「ワシの遺体は崇徳に見せないように!」とまで言っていたからだそうで……。しかも亡くなる直前にも崇徳天皇はお見舞いに行っていたのに対面を許さなかったとか。

ホント、どこをどうしたらそこまで恨めるんですかね。

崇徳天皇は歩み寄りたそうなのに、鳥羽天皇のほうであまりにも突っぱね過ぎていて、こっちが泣けてきます。

有名どころが後白河天皇方ということは、勝ったのもそっち側ということです。

当然負けた崇徳天皇と仲間達はそのままの立場ではいられません。

トップの崇徳天皇は讃岐国(香川県)に流罪。

崇徳天皇についた公家や武士も、軒並み実権を失うか、あるいは斬首という厳しい措置がとられました。

そしていよいよ怨霊伝説が……。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-飛鳥・奈良・平安
-