三浦義村

源平・鎌倉・室町

殺伐とした鎌倉を生き延びた三浦義村の“冷徹” 鎌倉殿の13人山本耕史

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梶原景時の変

義村が表に出始めるのは、正治元年(1199年)12月。

梶原景時についての相談を、友人の結城朝光から受けたときです。

詳しくは景時の記事をご覧いただくとしまして、ここでは簡単に経緯を。

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【梶原景時の変チャート】

1. 結城朝光が景時と仲違いする

2.”景時が「朝光には翻意がある」と頼朝に告げていた”と阿波局(政子の妹)が朝光に告げる

3.朝光が先手を打とうとして義村に相談

4.義村が「宿老の方々にも相談すべき」と提案

5.義村と朝光が和田義盛や安達盛長など、年長の御家人に相談

6.景時は、日頃から敵が多いタイプだったので、あれよあれよという間に66人もの弾劾の署名が集まる

7.義盛と義村が大江広元に弾劾状を提出

8.広元は弾劾状を手元で差し止めていたが、義盛に急かされて渋々頼家へ提出

9.頼家から景時に事実確認

10.景時が自ら鎌倉を退去(あるいは追放)

というわけで、この件における義村はある意味「仕掛け人」といった立ち位置でした。

いきなり武力を持ち出したり、準備もせずに頼家へ訴えるといった短絡的なことをしていないあたり、冷静な印象を受けますね。

石橋山の戦いでは敵対していたとはいえ、景時は頼朝挙兵直後といっていい時期から付き従っていた功臣の一人。この件がなければ、梶原氏も鎌倉幕府の中で一大勢力となっていたでしょう。

義村からすると、政敵を蹴落とすまたとないチャンスに見えたのかもしれません。

 

畠山重忠の乱

この後しばらく「義村と三浦氏は北条氏に次ぐ立場である」と認識されていくことになります。

少々時系列が前後しますが、義村は頼朝の意向で建仁二年(1202年)に北条泰時へ娘を嫁がせていました。これも、三浦氏の立場が強まった理由の一つでしょう。

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しかし、北条氏との結びつきが強まるということは、影響もまた強く受けるということ。

元久二年(1205年)には、北条時政の命によって、義時とともに無実の畠山重忠を討っています。

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【畠山重忠の乱】と呼ばれている、この事件。

時政の後妻である牧の方が、私情で

「重忠は謀反を企んでいるに違いありません!奴が動き出す前に討たなければ!!」

とゴネて、兵を動かさせたものでした。

当然、重忠に翻意がなかったことはすぐに発覚しました。

すると義村は、重忠のいとこである榛谷重朝と、その息子の重季・秀重らを鎌倉の経師谷(鎌倉市材木座)で討ち果たしています。

彼らは秩父の武士で、頼朝が鎌倉に入った頃から仕えていました。

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それから数カ月後、牧の方が源実朝を廃し、娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと陰謀を巡らせる事件がありました。

義村はこのとき、北条政子北条義時に味方し、実朝を守っています。

この事件によって時政は髪を落として伊豆に隠居し、牧の方も従ったため、北条氏の世代交代が終わりました。

これでようやく一難去ったかと思いきや、義時によって新たな争いが起こります。

建暦三年(1213年)5月の和田合戦です。

 

和田合戦

戦の経過についての詳細は和田義盛や和田合戦の記事(後日掲載)をご覧いただくとしまして、義村の動きにフォーカスしていきましょう。

この時代、誰かが何か事を起こそうとした場合、肉親や縁戚は基本的に味方するものでした。

三浦氏と和田氏は一門。

ですので義村も、最初は弟・三浦胤義などと共に、当初は和田義盛へ協力すると約束し、起請文まで書いていました。

しかし、いよいよ挙兵という段階になって考えを改めます。

義時に義盛の計画を告げ、討手となって和田氏と決別したのです。

単なる保身ともとれますが、家を残すことこそが武士の存在意義でもありますので、致し方なかったのでしょう。

鎌倉幕府ができてから、頼朝の挙兵当時から活躍してきた者は次々と討たれています。

北条時政→北条義時という世代交代や内輪揉めもあったとはいえ、おおむね「北条氏が他の御家人を排除した」状態です。

そして北条氏の私兵だけでなく、北条氏の中心人物たちが将軍の名のもとに出した命令によって、多くの御家人が討手側にまわりました。

つまり義村が

「義盛に加担したとしても、おそらく膨大な数の討手にやられるだろう。ならば和田に不義理を働いてでも、三浦が生き残る道を選んだほうがいい」

という考えに至ったとしても、不自然ではなさそうです。

元々、義村は非常に冷静な人です。

後述する源実朝暗殺事件の際にもそれは現れていますので、トラブルのときほど、その傾向が強まるタイプだったのかもしれません。

この動きに対し、義時は義村を非常に高く評価しています。

義村の真意がどんなものだったか、義時がどこまでそれを知っていたのか……大河ドラマでは焦点になるかもしれませんね。

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