源頼朝はなぜ弟の義経を排除したか?
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも大きなテーマであり、その理由の一つとして劇中の梶原景時は「両雄並び立たず」という趣旨の発言をしていました。
性格の違う天才二人は、立場を分かち合えない――。
そう言われれば、たしかに頷いてしまいますが、史実からすると、どうもそれだけが答えとも思えません。
大きな要因として考えられるのが【壇ノ浦の戦い】で義経が安徳天皇を入水まで追い込んでしまったこと。
直接手を下したわけじゃないにせよ、幼い天皇を死まで追い込んだのは、頼朝にとっては由々しき事態でありました。
なぜなら批判の対象が頼朝にも及び、同時にそこには「怨霊」という、当時最大級で恐れられた恐怖も伴ったのです。
オカルトと切り捨ててしまうなかれ。
頼朝と義経の兄弟トラブル、その理解の助けとなる「怨霊」の存在を振り返ってみましょう。
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怨霊の時代
新築の家を建てるとき、あるいはアパートの部屋を借りるとき。
価格が相場より安い場合、皆さまはこんなことを気にされたことはないでしょうか?
「心霊現象が起きたりしないよね……」
そんなバカなとは思いつつ、もしも近隣にかつての「処刑場」や「合戦場」があったとすれば、途端に笑い飛ばせなくなるのが人情。
ゆえに今でも事故物件という概念があり、地鎮祭も開催されるわけで、ましてや八百年前ともなれば俄然重要性を帯びてきます。
『鎌倉殿の13人』の舞台である平安末期から鎌倉時代は、怨霊を大いに気にした時代です。
日本史上に残る怨霊全盛期とすら言えるレベルでした。
では、人はいつから怨霊を恐れるようになったか?
実は「これだ!」という起点はハッキリしていません。
人が生きていく上で、何かを恐れることは自然な感情であり、有史以前からその心はあったでしょう。
では有史以降、怨霊に対して強い拒絶が生じるのはいつ頃からか?
あくまで人の感覚となり科学からは離れてしまいますが、奈良時代に大きくなり始め、平安時代で頂点を迎えたと考えられます。
平安時代に書かれた物語には、怨霊とそれを恐れる人間の様が数多く描かれているのです。
当時、まことしやかに語られた祟りや穢れは、現代においては差別につながる迷信と言えます。
特に、血の穢れと女性の生理現象や出産を結びつけるものは、性差別の根源の一つとされ、今でも女性が特定の山や相撲の土俵に登れない――そんな弊害も指摘されるところです。
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しかし、この思考は平安時代においては、暴力を抑制するという利点もありました。
憎たらしい誰かがいても、直接殺して血が流れたら穢れてしまう。そんな発想があるため、権力者層の貴族はそこまで気軽に殺人はしなかったものです。
こうした平安時代の怨霊代表格といえる人物が菅原道真です。
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彼の不遇や不運を思えば、怨霊化もやむを得ない。
そう思った人々の受け止め方があればこそ、あれほど祟りが恐れられた。
やがて菅原道真は、怨霊化を経て、学問の神様として崇められます。道真を酷い目にあわせた側の罪悪感がそんな現象を呼び起こしたのです。
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少し鎌倉時代に近づいて、平将門も同様でしょう。
斬首されたあと、首が飛んでいったとかなんとか……現在でも首塚に関する祟りは、怪談の定番中の定番といえます。
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しかし、同時にちょっと気になりません?
悲劇的な終わりを迎えたのは何も彼らだけじゃない。
他に、もっと悲惨な末路を辿った者は、怨霊になっていないのか?
下手をすれば世の中怨霊だらけではないか?
そう、『鎌倉時代の13人』で描かれる平安末期から鎌倉時代とは、怨霊という観念から見ると画期的な時代。
戦乱による怨霊候補乱立の到来でした。
鎌倉:怨霊対策を一から考えた都
源頼朝は信心深い人物として知られています。
人の命を奪う――そんな弓馬の道を極める武士であるからには慰霊が必須。
そんな頼朝が兵を挙げ、ついに鎌倉入りを果たしたとき、ほぼ一から都市を作ることができたため、当然ながら怨霊対策に取り組みます。
『鎌倉殿の13人』では、都市計画について弟の阿野全成に助言を仰いでいました。
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仏僧として知識のある全成。
彼が劇中で行う風水対策はユーモラスに描かれていますが、当時は極めて真面目な心持ちで取り組んでいました。
その痕跡は、鶴岡八幡宮はじめ、現在も見ることができます。
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鎌倉は、現在も寺社仏閣が多い街です。
それは怨霊対策や罪悪感の現れとも言えるでしょう。
どういうことか?
史実でも劇中でも、頼朝は大庭景親、伊東祐親、上総広常、木曽義高ら、大勢の命を奪いました。
ドラマを見ている側としては『一体この人は何様のつもりか』と言いたくなるほど。
そんな心情は、当時の人々にとっても同じであり、頼朝としても「せめて慰霊だけはしている」と証明する必要性がありました。
要は、彼にも罪悪感はあったわけで。
上総広常の願文をみて後悔したとか。
大庭景親、伊東祐親、木曽義高は供養を行ったとか。
そんな記録が残されています。
永福寺には、源義経と藤原泰衡を供養する慰霊碑もあります。
弟を殺したことについて、頼朝は罪の意識がなかったわけではありません。いや、むしろ恐れていた。
『吾妻鏡』には、当時こんな噂があったと記されています。
木曽義高、義経、泰衡の怨霊たちが集って鎌倉を目指している
おそらくや冗談で済まされる話ではなかったのでしょう。
『鎌倉殿の13人』で義高を演じた市川染五郎さんは幽霊役でも再登場したいとコメントしておりましたが、できなくはない設定と言えます。
怨霊と天皇
『鎌倉殿の13代』は、天皇と怨霊の関係が最も濃い時代を扱っています。
具体的には以下の四名。
崇徳天皇
安徳天皇
後鳥羽天皇
順徳天皇
いずれも怨霊伝説がある人物です。
崇徳天皇は後白河天皇と争った【保元の乱】に敗れ、讃岐に配流となりました。
女房たちと慎ましやかに暮らしていたとされるのですが、物語では全く異なります。
舌を噛みちぎり、血で「日本国ノ大悪魔」(あるいは「日本国ノ大魔縁)になると書き記したというのです。
この血で記した「五部大乗経」はあると言われながら実在は確かめられておりません。
もっとも、こうしたものは「見たら祟りで死ぬ! ゆえに誰も見たことがない……」と理由をつければどうとでもなりますが。
崇徳天皇本人は、慎まやかな性格だと目されていますが、周囲がそうとは限らず、怨霊伝説の発端は、天皇に仕えていた者からのようです。
あんな酷いことをしてただで済むと思うなよ……
そんな思いを周囲に言いふらしたため、巡りに巡って噂が大きくなってゆく。ゆえに、ただでさえ罪悪感のあった後白河天皇側も怯えるようになった。
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実は、頼朝の父・源義朝も、崇徳天皇の怨霊に怯える代表格でした。
義朝は【保元の乱】で、頼朝の祖父・源為義、頼朝の叔父・源義賢などの家族までを敵に回し、結果、父と弟を失っている。
ゆえに息子の頼朝が信心深くなるのは当然ともいえます。
平家に敗れた父や兄のみならず、崇徳天皇関係者までも慰霊の対象。
特に崇徳天皇はおそろしい……嗚呼、天皇を悲運に陥れたら恐ろしいことが待っているのだな……頼朝がそう思っていたことは確かです。
恐怖心があればこそ、平家も安徳天皇を船に乗せ逃げていったのでしょう。いわば天皇を盾にしたのです。
しかし、歴史とは何とも皮肉なもの。
頼朝の弟である義経たちは、安徳天皇が船にいようがお構いなし。
苛烈なまでに敵を追い詰め、ついに安徳天皇は祖母・二位尼に抱かれ、海に沈んでしまいます。
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そして、その非難の対象は、頼朝に向かいました。
安徳天皇を海に沈めた主犯格と見なされるようになるのです。
頼朝にとってはあまりに予想外、義経の暴走が引き起こした悲劇ですが、そんな言い訳、世間には通じません。
三種の神器の剣と安徳天皇が水没してしまった事実は変わらない。
ゆえに頼朝が義経に激怒し、鎌倉入りを許さなかったことも致し方ないことでしょう。
安徳天皇のあまりに悲惨な最期について、当時の人々は驚愕しました。
成人していて、かつ争いに積極的に関わった崇徳天皇を、存命のまま配流したことですらおぞましいのに、まだ6才の安徳天皇を追い込むとはいかがなものか。
その慰霊に頭を悩ませた人物が九条兼実です。
崇徳と安徳の慰霊――彼らにとって浮上した喫緊の課題。
どちらも「徳」と諡号についていますが、「徳」は怨霊の鎮撫を行うための字です。
安徳天皇の慰霊は『平家物語』にも込められています。
物語を知った人が嘆き悲しみ、安徳天皇を思うことが慰霊になる。
三種の神器のうち剣だけが見つからなかったのは、海の底にいた竜神が持ち去ったのだろう。海の底にある竜宮に帝と平家は向かったのだろう……そんな語り口からは、怨霊を鎮めたい願いも感じられるものです。
琵琶を弾きながら語られるとき。
ドラマやアニメとして人々が鑑賞するとき。
その間、人々が平家を思い、涙することで、怨霊が鎮められる――そんな考え方ですね。
しかし……当の頼朝にとって、壇ノ浦の戦いで起きてしまった悲劇を覆すことはできません。
結果、信心深い頼朝にとって、怨霊対策はもはや人生を賭けた課題にもなりました。
果たしてその効果はあったのかどうか?
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