北条時政

北条時政(画:歌川芳虎)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

史実の北条時政も権力欲に溺れていた? 鎌倉殿の13人坂東彌十郎

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比企能員の変

この提案に対する比企氏の反応は、ある意味で時政の予想以上だったでしょう。

一幡の母・若狭局を筆頭に、

「分割相続などとんでもない! 一幡が全て相続するべきです!!」

とゴネまくって、さらに意識が戻った頼家にこのことを知らせました。

頼家も頼家で、母の実家にはあまり良い印象を抱いていませんから、こちらも大激怒。

「時政を討て!!」

比企氏にそんな許可を与えてしまいます。ところが、です。これを隣室で政子が聞いていたものですから、さぁ大変。

政子は時政に知らせました。

時政は、何も知らないフリをしつつ、仏事にかこつけて比企氏の当主・能員を自邸へ呼び寄せました。

能員もアヤシイとは思いつつ、仏事と言われれば物々しく構えていくこともできません。

そこで疑いをかけられないよう、特に武装せず平服で時政邸へ向かったのですが……時政からするとしてやったりだったでしょう。

剛の者を配して待ち伏せ、あれよあれよと言う間に比企能員を討ち取ってしまうのです。

比企能員
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命からがら逃げ延びた能員の従者が、事のあらましを比企氏の邸に知らせると、一族は立てこもって徹底抗戦を選びます。

対して、政子がこう呼びかけたとされます。

「比企氏は将軍に逆らう不届き者!!」

結果、有力御家人は政子方につき、追い詰められた比企能員は一幡とともに滅びました。

残った頼家は、政子に諭されていやいやながらも鎌倉から修善寺に移って引退。

時政からすると、最高に近い状況になったわけです。

しかし、時政の誤算がひとつ出てきます。

直後、元服を慌ただしく済ませた実朝が将軍職を継ぎましたが、彼は時政が思っていたほど”お飾り”になるタイプではなかったのです。

 

政所別当の座につき権力をガッチリ

源実朝は、将軍に就いた直後から、父である頼朝の事績などについて積極的に学び、周囲にもこれをよく知っておくよう働きかけていました。

また、自分の妻を選ぶにも、政子が御家人の娘から選ぶよう勧めたのを断り、公家の姫を迎えたいと自己主張しています。

これらに対して、時政が反対・賛成したというような記録はありません。

既に政子と北条義時、そして大江広元などの幕閣と呼べる人々が実朝をバックアップする体制が出来上がっていたため、時政が意見をねじ込める状態ではなかったのかもしれませんね。

政子や義時にしても、実朝を頭から押さえつけようとしたフシはなさそうです。

「この子は頼家よりは将軍に向いていそうだから、少し思うままにやらせてみよう」ということで、姉弟の合意があったのかもしれません。

これは正直な話、記録に残りづらい範囲のことであり、想像の域を出ません。

しかし、実朝が政策などについて自己主張をしたときに、母や叔父と大きく対立したという記述がみられないことからすると、大きく外れてはいないのではないでしょうか。

といっても、時政は実朝の時代になってから政所別当の座についたり、諸国の御家人の領地を安堵する文書を発行したり、押さえるべきところはガッチリ押さえています。

元久元年(1204年)、息子の義時が従五位下・相模守に就任。

翌年には、その弟・北条時房が従五位下・遠江守に叙任され、北条氏の立場が一段と強くなっていきます。

時政や政子の力もさることながら、北条氏全体が幕府の顔といっても過言ではない状態になったのです。

そんな時政の運が傾いてきたのは、晩年期に入ってからでした。

同時期は「後妻の実家に流されすぎ」あるいは「子供たちの言うことを聞かなさすぎ」といえます。

時政最初の妻(=政子や義時を産んだ女性)もまた伊東祐親の娘でした。

詳細な残ってないため、なんとも判断がつきかねるのですが、早いうちに死別していたようです。

そして後妻として娶ったのが、”牧の方”と呼ばれる女性です。

牧の方は、実は平清盛の継母である池禅尼の姪にあたります。その縁から具体的にどうこう……ということはなかったようですけれども。

彼女の生年についてはよくわかっていません。

時政が保延4年(1138年)生まれとされており、愚管抄には「時政が若い妻を娶った」と書かれていることから、おそらく牧の方との年齢差は10歳以上あったでしょう。

ドラマ鎌倉殿の13人と同じ設定ですね。

となると、牧の方の生年は1148年以降だとみるのが妥当かと思われますが、当時の社会通念からすると、もっと離れていたとしても珍しくはありません。

時政と牧の方の仲は良かったそうですが、牧の方と継子である政子や義時たちとは微妙だったようで……。

 

畠山重忠の乱

なんとなく悪い空気が漂う中、元久年間に事件が起きます。

この頃、牧の方の娘婿・平賀朝雅が京都警備のために上洛していました。

朝雅は後鳥羽上皇の覚えもめでたく、御所にも出入りしていたといいます。

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そして元久元年に伊賀で平家の残党が兵を挙げると、上皇は朝雅に追討を命じました。

首尾よく終わり、上皇から朝雅に伊賀が与えられ、代わりにそれまでの伊賀守護山内首藤経俊(やまのうちすどう つねとし)はクビにされました。

朝雅はこれで強気になったのでしょうか。

討伐に行かなかった御家人の所領を勝手に没収したり、上皇から右衛門佐の官職をもらったり、目に余る行動を始めます。

そしてこの朝雅、デカイ事件を起こします。

幕府草創期からの功臣・畠山重忠の息子である畠山重保と口論し、不満を抱いて牧の方に讒言したのです。

牧の方は、さらに時政に向かって「重忠・重保父子は、幕府に叛乱を企てているのです!」と讒言。

時政は、これを真に受けたのか、重忠を邪魔だと思っていたのか、真意は不明ながら息子たちに重忠討伐を命じるのです。

北条義時や北条時房はビックリ仰天。

重忠は日頃の言動にも問題がなく、むしろ人望が厚いタイプでした。

息子の口論程度の理由で討つなどということとは、縁が遠いどころか全く無い人なのです。

当然ながら義時や時房は時政を諌めます。

しかし、牧の方やその兄から「お前は継母の言うことは聞けないというのか」となじられ、やむなく討伐に参加した……とされています。

かくして畠山重忠は鎌倉に呼び出され、その道中で討たれることになりました(畠山重忠の乱)。

なお、事件の一年以上前に「時政が重忠に討たれた」という出どころ不明の噂が京都で流れていたようです。

つまり、その頃の京都でも

”時政・朝雅と重忠の関係が良くないらしい”

という認識があったということになります。

 

牧氏事件からの死

北条氏の人々が常人であれば、ここで家が真っ二つに割れ、それぞれに御家人がついて幕府の存続すら危うくなったかもしれません。

しかし、さすがに北条政子や北条義時は違いました。

時政が牧の方とともに、実朝を廃して朝雅を将軍に担ぎ上げようとすると、彼らは一致団結して逆に時政を排除したのです。

命まで取らなかったのは、せめてもの情けでしょうか。

この騒動は【牧氏事件】とか【牧氏の変】あるいは【平賀朝雅の乱】と呼ばれ、時政は出家して、地元の伊豆北条に戻りました。

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その後はおとなしく仏門に帰依していたものか、吾妻鏡に全く登場しなくなります。

そして建保三年(1215年)1月6日、北条時政は腫れ物が原因で亡くなりました。

牧の方は、時政の隠遁について行ったとされていますが、その後は娘の嫁ぎ先である京都に行っていたようです。

安貞元年(1227年)1月に、京都で時政の十三年忌供養が行われたという記録があります。

時政を切り捨てたおかげで、北条氏は鎌倉幕府における権力を保持、そして拡大できたと見ることもできます。

もしも時政が、政子と義時を処分したり、あるいは政子と義時が対応を変えていったら、その後の鎌倉幕府はかなり違った姿になっていたでしょう。

北条時政が源頼朝に賭けた度胸。

親を切り捨てて家を取った北条政子と北条義時。

根底にある芯の強さや度胸、勝負運をみると、よく似た親子だったのかもしれません。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
細川重男『北条氏と鎌倉幕府』(→amazon
日本史史料研究会『将軍・執権・連署 鎌倉幕府権力を考える』(→amazon
上横手雅敬『鎌倉時代-その光と影』(→amazon
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon

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