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【南北朝時代】
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幕府はあらためて両統迭立を支持することに
幕府のほうにも、持明院統・大覚寺統の両方から「私達に味方してください!!」という要求が届きます。
しかし、どちらかだけに肩入れすると、後々に悪影響を及ぼす可能性が高くなります。
そこで、幕府は「ここは以前決めた通り、両方の系統を交代交代にしていきましょう(これを両統迭立と言います)」と返事をしました。
この時の天皇は大覚寺統なので、皇太子は持明院統から出しましょう、というわけです。
実質権力者の幕府から正式にこう言われてしまうと、朝廷もそれ以上はゴネられません。
そこで伏見上皇の皇子(後の花園天皇)が皇太子になります。
延慶元年(1308年)には後二条天皇が急死したため、花園天皇として即位しました。
このときも幕府は改めて両統迭立を支持しています。
持明院統の天皇が即位したので、次は大覚寺統から皇太子を立てましょう、というわけです。
実際、順番でいえば、ここは後二条天皇の皇子である邦良親王が皇太子になるべきところでした。が……。
当時、邦良親王が幼かったために、中継ぎとして後二条天皇の異母弟が立つことになりました。
これが後の後醍醐天皇です。
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「文保の御和談」で余計に揉める
後醍醐天皇が即位した段階で、両統迭立(交互に治天の君が変わる)問題が発生してから三十年近くが経過。
この頃には元寇の後始末や、御家人vs御内人(みうちびと・北条家の家臣)の対立などで、幕府でも厄介事が山積しておりました。
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そのためか、花園天皇が即位して9年目に入り、大覚寺統から
「そろそろ代替わりしてもいいよね?」
という話が出たとき、鎌倉幕府は素っ気ない返事に留まります。
「今度からは幕府は介入しませんので、持明院統と大覚寺統の話し合いで継承順を決めてください」
交互に治天の君が変わる順序が半ば確定しかかっていたので、これ以上の問題は起きないと思ったのでしょうか。愛想が尽きたとかそんなまさか。
そこで、持明院統と大覚寺統の間で「文保の御和談」と呼ばれる話し合いの場が設けられます。これが残念なことに……。
結局、意見が一致せず、和談どころか破談。再び西園寺実兼が幕府に工作を行い、後醍醐天皇の即位と、同じ大覚寺統から皇太子を立てることが決まります。
これと討幕のアレコレが絡んでさらにややこしくなるのですが、その辺について今回はざっくり流させていただきます。
でないと余計わからなくなりますからね。
後醍醐天皇が始めた政治でさらに混乱
大覚寺統である後醍醐天皇は、
「鎌倉幕府の両統迭立を保つ姿勢が、天皇への権力集中の妨げになる」
と考えていました。
それを解消すべく討幕を計画します。
が、そのたびにバレ、一時は後醍醐天皇自身が隠岐に流されるほどでした。
事態がさほどに単純でなくなってきたのは、天皇方の討幕計画がポシャっても、武士の内部から討幕の機運が高まっていたからでしょう。
元寇の恩賞不足や、御内人と御家人の対立に加え、ついには地方武士などが愛想を尽かし始めます。
そしてその中には、源氏の名門として知られる足利尊氏や、その同族である新田義貞などもいました。また、楠木正成のような悪党もその流れに加わります。
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彼らの活躍によって鎌倉幕府は倒れました。
これを見た後醍醐天皇は【建武の新政】と呼ばれる天皇主権の政治体制を始めます。
が、あまりにも天皇に集権させようとして業務の停滞を招き、逆にあらゆる方面に反感を買って崩壊してしまいました。
また、新体制の不安定さを見て、関東では北条氏の残党が中先代の乱を起こしています。
これを見た足利尊氏は、後醍醐天皇への相談なしに関東へ向かい、中先代の乱を実力で収めて武士からの信望をさらに高めました。
デキるときの尊氏は本当にカッコイイんですよね……デキるときは(ボソッ)
新田や楠木は後醍醐天皇を支持していたが
新田義貞や楠木正成は、この間も大覚寺統の後醍醐天皇に従う動きを見せました。
持明院統にとっては苦々しい場面となりますね。
そこで後醍醐天皇方に圧されて一時九州に落ち延びていた足利尊氏を、最終的には持明院統も支持して、光明天皇を擁立。
さらに征夷大将軍の宣下を受けて、室町幕府を開くことになります。
後醍醐天皇は京を追われて吉野に逃げ延びました。
それが建武3年12月21日(1337年1月23日)のこと。
後醍醐天皇は諦めず、吉野で「自分こそ正当な天皇だ」として、南朝を開きます。
セオリー的にいうと、
・首都を奪われた
・追い出された
この時点で政治的には詰みのハズですが……。
そしてその場合、逆転を目指すのであれば、真っ先にやるべきは首都の奪還ですが……。
実は南朝方も一枚岩ではありませんでした。
少し時系列を遡りますが、楠木正成が足利尊氏との和睦を献言しても、公家などが鼻で笑って採用せず、正成が半ばヤケになって【湊川の戦い】で命を落としたことは割と知られた話です。
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他の武士も各地で敗北し、南朝の軍はあっという間に数を減らしていくのでした。
さらには中核である後醍醐天皇も暦応二年=延元四年(1339年)に崩御してしまい、南朝の大義名分が薄れ始めます。
時勢はすでに北朝で固まりつつありました。
室町幕府でも盛大な兄弟喧嘩が始まってしまい
それでも、この時点で生き残っていた南朝方の武士は北朝との戦を続けます。
もはや目的と手段が入れ替わるという、戦をすることが義務や目的になってる空気すら感じられますね。
鎌倉幕府の滅亡が1333年、後醍醐天皇の崩御が1339年。たった6年の間に、これだけの混乱が起きてしまったのです。
後世から眺めている我々ですら混乱するのですから、いわんや当時をや。
しかも、です。
このあたりで、北朝に属する室町幕府でも観応の擾乱が起きてしまうのだから、更にややこしや~。
観応の擾乱とは足利尊氏vs足利直義の兄弟喧嘩です。
キッカケは【政務担当&副将軍状態だった尊氏の弟・直義を、室町幕府のナンバー2だった高師直(こうのもろなお)らがやっかんだ】のがそもそもの始まり。
そうなった理由は【師直たちが南朝軍を打ち破っていたため、「直義とかもういらなくない?w」(超訳)と考えた】からでした。
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この状況で内輪揉めってどうなのよ!
せめて事が片付くまでは協力すればいいのに……と思ってしまいますが、まぁ後の祭りで。
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