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【南北朝時代】
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伏見天皇の暗殺を企む事件を機に両者の仲は……
こうして皇統は持明院統で落ち着いたかに見えました。
しかし、そこで事件が勃発。
「武士の浅原為頼らが内裏に乱入し、伏見天皇の暗殺を企む」というトンデモナイ事態となったのです。
持明院統は当然、大覚寺統とその代表者である亀山上皇を疑いました。
亀山上皇は無関係であることを主張しますが、これをキッカケに両統の感情は悪化し続けることになります。
また、この頃は治天の君が後深草上皇から伏見天皇になっていました。
これに伴って、朝廷での立ち位置も変わってきます。
具体的には、西園寺実兼の立場がやや弱まり、京極為兼という人が台頭していました。
当然、実兼と為兼は対立するわけですが、ここで実兼が持明院統を離れ、大覚寺統に接近するという鮮やかな鞍替えをやってのけます。
おそらく当時の誰もが「はぁああああ!!!!」となったでしょうね。
そして実兼は大覚寺統として動き始めます。
後宇多上皇の皇子を皇太子にし、そのまま後二条天皇として即位。
こうなると次の皇太子を持明院統・大覚寺統どちらから出すかでまた揉めるわけで……。
要は「新しい天皇が即位するたびに、次の皇太子(その次の天皇)の座をお互いに争う」ということです。
藤原道長みたいに「娘を入内させて孫の皇子を即位させ、その後見として実権を握る」みたいな感じだったら、割とわかりやすいんですけどねぇ。
幕府はあらためて両統迭立を支持することに
とにかく優先的なポジションを取りたい持明院統と大覚寺統。
その両方から「私達に味方してください!!」という要求が幕府に届きます。
しかし、どちらかだけに肩入れすると、後々に悪影響を及ぼす可能性が高くなるのは明白でしょう。
そこで、幕府はこう返事します。
ここは以前決めた通り、両方の系統で交互に皇位につきましょう
(=両統迭立を続けましょう)
この時の天皇は大覚寺統なので、皇太子は持明院統から出しましょう、というわけです。
幕府を頼ってこういわれたわけですから、両統ともそれ以上はゴネられません。
そこで伏見上皇の皇子(後の花園天皇)が皇太子になりました。
延慶元年(1308年)には後二条天皇が急死したため、花園天皇として即位しています。
このときも幕府は改めて両統迭立を支持しています。
持明院統の天皇が即位したので、次は大覚寺統から皇太子を立てましょう、というわけです。
順番でいえば、ここは後二条天皇の皇子である邦良親王が皇太子になるべきところですが……邦良親王がまだ幼かったために、中継ぎとして後二条天皇の異母弟が立つことになりました。
これが後の後醍醐天皇です。
「文保の御和談」で余計に揉める
後醍醐天皇が即位した段階で、両統迭立問題が発生してから30年近くが経過していました。
この頃には元寇の後始末や、御家人vs御内人(みうちびと・北条本家の家臣)の対立などで、幕府でも厄介事が山積。
そのためか、花園天皇が即位して9年目に入り、大覚寺統から
「そろそろ代替わりしてもいいよね?」
という話が出たとき、鎌倉幕府は素っ気ない返事に留めます。
「今度からは幕府は介入しませんので、持明院統と大覚寺統の話し合いで継承順を決めてください」
持明院統と大覚寺統から交互に皇太子→天皇→治天の君を出す、という体制が半ば確定していたので、これ以上の問題は起きないと思ったのでしょうか。
愛想が尽きたとかそんなまさか。
そこで、持明院統と大覚寺統の間で「文保の御和談」と呼ばれる話し合いの場が設けられたのですが……これが残念なことに、和談どころか破談になってしまいました。
そして再び西園寺実兼が幕府に工作を行い、
後醍醐天皇の即位と、同じ大覚寺統から皇太子を立てることが決まります。
これと討幕のアレコレが絡んでさらにややこしくなるのですが、今回は倒幕に関する点はざっくりカットして進めさせていただきます。
後醍醐天皇が始めた政治でさらに混乱
大覚寺統である後醍醐天皇は「鎌倉幕府の両統迭立を保つ姿勢が、天皇への権力集中の妨げになる」と考えていました。
それを解消すべく討幕を計画します。
しかし、そのたびに発覚してしまい、一時は後醍醐天皇自身が隠岐に流されるほど。
すると後醍醐天皇の息子のひとり・護良親王が倒幕の令旨を出し、これに応じる武士が増えていきます。
また、それ以外にも元寇の恩賞不足・御内人と御家人の対立などによって北条氏に愛想をつかした武士たちが、倒幕側につきはじめました。
その中にいたのが、源氏の名門として知られる足利高氏(のちの尊氏)や、その同族である新田義貞など。
楠木正成もこのうちの一人ですが、彼の場合はもとの出自や立場がまだ不明なため、足利・新田軍とはまた違った理由があったと思われます。
護良親王の令旨が一番の理由かもしれませんね。
そして後醍醐天皇が隠岐の脱出に成功してまもなく、高氏・義貞らによって鎌倉幕府は倒れました。
これで両統迭立を気にしなくて良くなった後醍醐天皇はホックホクで【建武の新政】と呼ばれる天皇主権の政治体制を始めます。
しかし、です。
これがあまりにも天皇に集権させようとして業務の停滞を招き、逆にあらゆる方面に反感を買って崩壊してしまいます。
身内であるはずの貴族からもディスられるほどです。
こうした新体制の不安定さを見て、北条氏の残党も全国各地で反乱を起こしました。
中でも有名なのが【中先代の乱】を起こした北条時行ですね。
中先代の乱が起きた当時の鎌倉は、足利尊氏の実弟・足利直義によって統治されていました。
直義の能力は不可欠だと考えていた尊氏は、後醍醐天皇への許可を待たずに関東へ急行。
中先代の乱を実力で収め、味方した武士へ独断で恩賞を与えて、彼らからの信望をさらに高めました。
前九年の役からのならいとして、武士は褒賞をくれる者へ心の底から臣従します。そしてそれは朝廷の方針よりも優先されます。
尊氏もそれを理解していたからこそ、独断で動き、気前良く土地や官職をバラまいたものと思われます。
デキるときの尊氏は本当にカッコイイんですよね……デキるときは。
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