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【南北朝時代】
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新田や楠木は後醍醐天皇を支持していたが
後醍醐天皇は武士のこの性質を全く理解できていませんでした。
新田義貞や楠木正成が自分にずっと従っていたので、尊氏と彼に従う武士たちのほうが異常だと思っていたのかもしれません。
この後、義貞や正成、そして奥州将軍府の北畠顕家などによって尊氏は一時九州へ追いやられます。
ここで後醍醐天皇と側近たちは安心してしまい、後に自らの首を絞めることになります。
一方その頃、持明院統の面々は大覚寺統の後醍醐天皇が人材を集めている様を苦々しく思っていました。
ここで、尊氏と持明院統の利害が一致します。
天皇と敵対した尊氏方は「朝敵」。
しかし、上皇から許されれば朝敵ではなくなるどころか、それを討つ権利を手に入れられます。持明院統には先代の天皇である光厳上皇がいましたから、院宣を出せるのです。
「天皇vs上皇」と見ると、ここも保元の乱と似たような構図ですね。
こうして尊氏は院宣を受けて「上皇の軍」となり、後醍醐天皇方の軍を討つ大義名分を得られました。
以下のように一気に有利な展開を呼び寄せるのです。
・湊川の地で新田軍&楠木軍と足利軍が激突し、正成は自害
・逃げ延びた義貞によって敗戦の知らせが届いた京は大混乱に陥り、後醍醐天皇は撤退
・入れ替わりに京へ入った尊氏は持明院統を支持し、光明天皇を擁立
ついには尊氏が光明天皇から征夷大将軍の宣下を受けて、室町幕府を開くことになりました。
そして南北朝時代が始まった
足利尊氏の動きに対し、後醍醐天皇も黙っていません。
後醍醐天皇は京を脱出して吉野に逃げ延び、「自分こそが正当な天皇だ」として、南朝を開きます。
それが1337年1月23日(建武三年12月21日)のことで、ここから【南北朝時代】となるわけですね。
どうせ京都から逃げているのですから、いっそのこと戦力的に一番アテになりそうな北畠顕家のもとまで行ってしまえばいいものを……とツッコミたくなってきます。
当時の価値観では致し方ないんですけどね。
その北畠顕家はというと、上方における動きに応じて再び西上してきていました。
しかし顕家は摂津で高師直に敗れ、体制の改善は難しいと考えて後醍醐天皇へ上奏文を出しましたが、それから数日後に石津の地で討死。
後醍醐天皇は義貞に自分の息子である尊良親王(たかよししんのう)を預けてわざわざ北陸に行かせ、手元の兵力を自ら減らすという下手を打ってしまいます。
親王たちを遠ざけることで、最悪の場合でも自分の血筋を残すという意図もあったかもしれません……。
しかし、これは真逆に働きます。
尊氏方の高師泰らが北陸を攻め、尊良親王を自害させると、新田軍においても義貞の長男・新田義顕(よしあき)を失うという被害が出ました。
義貞はいったん逃れたものの、間もなく藤島で討ち死に。
短期間に南朝の将兵はガンガン減ってしまうのです。
さらには中核である後醍醐天皇も暦応二年=延元四年(1339年)に崩御してしまい、南朝の大義名分が薄れ始めます。
後醍醐天皇が息子・義良親王に京都奪還を厳命していたため、義良親王改め後村上天皇は忠実にこの遺言を守り続けます。
親子愛としては麗しい話ですが、周囲にとっては……。
これにより、南朝に従う武士はもちろんのこと、足利方を敵視する武士も南朝方として動き続けました。
室町幕府でも盛大な兄弟ゲンカが勃発
鎌倉幕府の滅亡が1333年、後醍醐天皇の崩御が1339年。
たった6年の間に、登場→退場した人々は
・楠木正成
・北畠顕家
・新田義貞
・後醍醐天皇
と、南朝方ばかりです。
かといって北朝&室町幕府が順風満帆か?というと、ここで【観応の擾乱】が起きてしまうのですから、ややこしいにもほどがある。
足利尊氏と足利直義が、ド派手な兄弟ゲンカを始めてしまうのです。
キッカケは、政務担当&副将軍状態だった尊氏の弟・直義と、室町幕府のナンバー2だった高師直(こうのもろなお)の対立がそもそもの始まり。
二人は同じくらいの権力を持っていたものの、価値観が違いすぎてそれぞれの派閥が生まれてしまい、直義が師直を暗殺しかけるやら、師直が逆襲するやらで混乱を極めました。
今度は新田や楠木の息子たちが大活躍
敵の混乱に乗じるのは兵法の基本。
ということで、北朝が観応の擾乱で揺れている隙を狙って、南朝方が勢いをつけはじめます。
具体的には、楠木正成の息子・楠木正儀らが京都へ進み、後醍醐天皇の皇子・宗良親王を奉じる新田義貞の息子たち義興・義宗と北条時行が鎌倉を攻撃しました。
北朝方は京都・鎌倉を奪回しますが、再び南朝方が京都を襲撃し、【光厳・光明・崇光の三上皇】と【三種の神器】を奪って吉野へ帰還。
北朝に大打撃を与えると、さらなるショックなことが起きます。
足利直義の養子・足利直冬が南朝に寝返り、中国・九州で勢力を拡大し始めるのです。
しかも、これを解決しきれぬまま足利尊氏は病死してしまい、息子の二代将軍・足利義詮に任せる……というカオスっぷりです。
こんな調子ですから、スンナリ北朝側の勝ちとはなりません。
室町時代が始まっても、まだまだ南北朝問題が続くんですね。
二代将軍・義詮は将軍の権威を高めつつ、南北朝の問題を解決するため、南朝方の掃討戦を計画・実行するしかありません。
関東に目を向ければ、国人たちが関東執事・畠山国清の罷免を求めて蜂起。
これに対し、鎌倉公方(室町幕府の関東・東北統治機関のトップ)である足利基氏が要求に応じ、畠山国清を追放して、旧直義派の上杉憲顕を後任に命じます。
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