南北朝時代

後醍醐天皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

南北朝時代は何年続いた? 両統迭立に始まり明徳の和約以降も燻った不毛な争い

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北の仲間割れで南もキッパリ戦をやめられず

京都では、以前から強引な面があった細川清氏が義詮に追放され、新たに斯波義将が幕府のナンバー2である執事の座に就きました。

室町幕府における「執事」とは、本来ナンバー2のことです。

が、これ以降は将軍の代理という感が強くなり、斯波義将自ら「管領」と名乗るようになります。

さすがに双方落ち着き始めたのが、貞治二年=正平十八(1362年)頃のこと。室町幕府と南朝の間で講和の動きが見え始めます。

南朝方の武将が何人か、室町幕府に帰順したことがきっかけでした。

「なんでもっと早くできなかった!」とツッコミたくなってきますが、後醍醐天皇薨去からここまでの動きを乱暴にまとめると

北朝:外の問題が片付いてないのに仲間割れして問題を量産する

南朝:後醍醐天皇の遺言を守る名目+北朝がgdgd過ぎて降伏する気にならないので戦をやめない(やめられない?)

みたいな感じです。

なお、これに終止符を打ったのが、室町幕府三代将軍・足利義満でした。

足利義満/wikipediaより引用

 


義満は積極果敢に力を誇示!

義満は幼い頃、摂津に泊まった際

「ここの景色が気に入ったから持って帰りたい^^」

というダイナミックなわがままを言って、家臣たちをいろんな意味で驚かせたような人ですから、ナイーブな逸話の多い祖父・尊氏や、その後始末に奔走し続けて若死にした父・義詮とは根本的に性格が違います。

祖父や父が武家出身の母から生まれているのに対し、義満の母が聖職者の娘だったから――というのは関係ありますかね。

尊氏や義詮が「戦が起きてから対処する」という対症療法的な動きをしていたのに対し、義満は「自分の力を誇示してから戦をする」という方法をとりました。

義満は正平二十二年=貞治六年(1367年)、わずか9歳で将軍職を就任。

もちろん、しばらくは周囲の重臣たちが実務を行っていました。

しかし、応安三年(1370年)からは延暦寺の取締権を与えられたり、朝廷の行事を再興させたり、北朝朝廷との結び付きを自ら強めていきます。

ほかにも寺院の建立や将軍御所の移転、将軍直属の常備軍・奉公衆の設置など、自分の周囲を固めました。

平たくいうと「世間的な地位を高めつつ、自分の身辺警護を固めて、ちょっとやそっとでは地位が揺れ動かないようにした」わけですね。

上記の通り、これまでの室町幕府内部では「誰かが何かにムカついて実力行使に出ました」というケースが多発していた。

まずはこれを防ぐため「いざとなったらすぐ叩き潰せる準備」をしたのです。

 

 


「いざとなったら俺が相手してやんよ!」

義満の示威行動もなかなかのもので。

東大寺・興福寺への参詣によって南朝に、富士山や厳島神社への視察によって東国・西国の武士にプレッシャーをかけています。

「いざとなったら俺がここまで来て相手してやんよ!」というわけです。

また、管領・斯波義将が禅宗寺院をえこひいきして、他の宗派や守護から反発を受けていたため、彼を罷免して細川頼之を後任にしています。

斯波義将

斯波義将/wikipediaより引用

頼之は十年ほど幕政を主導しましたが、他の大大名との確執により、【康暦の政変】によって領地である四国へ身を引きました。

入れ替わりに義将が中央に返り咲いています。

しかし、この頃には義満自身が政治を主導するようになっていたので、以前ほど義将が反感を買うことはなかったようです。

頼之が二年ほどで赦免されて京へ戻ってくると、今度は義将が領国の越前へ引っ込んでいます。

つまり、義満がその時々の状況を見て、他の大名が暴発しないように管領に就く人間を入れ替えていたことになりますね。

どこまで意図していたのかは不明ですし、小狡いといえば小狡いですけれども、それできちんと幕府をまとめていったのですから、いずれにせよ政治的能力は卓越しています。

 

【明徳の和約】で南北朝を合一させたが

義満はその後も手を緩めません。

明徳元年=元中七年(1390年)には、美濃・伊勢・尾張三ヵ国の守護である土岐氏を叩き、その翌年には山陰地方の大部分を領有していた山名氏の勢力を半減。

こうして名実ともに将軍の力を誇示することに成功し、いよいよ本丸である南朝との和平交渉に入ります。

【明徳の和約】で南北朝を合一させたのです。

ただし、こちらは「室町幕府と南朝の間で和約が成った」というもので、北朝の面々は蚊帳の外。

南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に神器を渡したものの、後小松天皇としては澱が残るような流れでした。

後小松天皇/Wikipediaより引用

例えば、和約では「今後の皇位は両統迭立とする」とされていましたが、合一後、後小松天皇は旧南朝方ではなく、自らの皇子である称光天皇を後継者にしています。

これには旧南朝方が猛反発。

称光天皇が皇子のないまま崩御したこともあって、応仁の乱あたりまで旧南朝方(後南朝)はゴネています。

応仁の乱のドタバタでほっぽり出されて断絶し、その後は歴史の中に埋もれてしまいましたが……にしても長っ!

こうして、始まったときもモヤモヤでしたが、スッキリしないまま南北朝時代は終わったことになっています。

乱暴に表現すると

「応仁の乱以降は戦国時代になったので、南北朝とか言ってるヒマない」

みたいな感じですかね。


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長月 七紀・記

【参考】
かみゆ歴史編集部『完全解説 南北朝の動乱』(→amazon
森茂暁『後醍醐天皇 南北朝動乱を彩った覇王 (中公新書) 』(→amazon
国史大辞典
世界大百科事典

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