北条時房

和田義盛への使いに向かう北条時房の図/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

史実の北条時房(時連)は隠れた名将なり 鎌倉殿の13人瀬戸康史

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北条時房
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選ぶのは父か? 姉と兄か?

源頼家の死により、その側近たちも多くが悲運の最期を辿っています。

比企能員とその一族。

源頼家の妻子。

そもそもは「鎌倉本体の武士」と讃えられた梶原景時が追い詰められていた場面で、頼家がそのことを見逃したことが自身の命を縮めたとすら言えるでしょう。

梶原景時
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こうした酷い粛清を経て、鎌倉幕府でも抜きん出た力を得たのが北条氏ですが、他ならぬその北条氏でも内紛が起こります。

中心にいたのが牧の方(りく)です。

りく(牧の方)
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時房や義時の父である北条時政よりずっと若く、子沢山の彼女には北条政範という男子がいて、北条氏の後継者と目されていました。

ゆえに兄である時房の心中は複雑なところ……とは先程重ねて申した通りですが、意外な結末を迎えます。

元久元年(1204年)、頼家亡きあと、鎌倉殿は弟・源実朝が三代目となっていました。

その実朝の正室を迎えるべく、政範が京都へ出向きます。

二人の兄をさしおいて上洛したことからも、どれほど政範が期待されていたかわかりますが、なんとこの京都への旅で、政範が病に倒れ、急死したのです。

我が子を北条家の跡取りとする計画は頓挫――牧の方(りく)にとってはこれ以上ない悲劇でした。

そしてこの一件が遠因となったのか。さらなる悲惨な事態が起きてしまいます。

発端は元久2年(1205年)11月、畠山重忠の子・畠山重保と、平賀朝雅の言い争いでした。

畠山重保にしても、平賀朝雅にしても、時房との関係は浅くありません。

彼らの妻が時房の姉妹であり、義理の兄弟にあたるです。

本来であれば、こうした親戚関係が縁となって事は深刻化せず、騒ぎは収束するところでしょう。

しかし、そうはなりませんでした。

父の北条時政と、義母の牧の方(りく)がとんでもないことを言い出します。

「畠山重忠に反乱の疑いがある! ヤツらを討ち果たせ!」

あろうことか北条義時と北条時房に、そんな命令がくだされたのです。

むろん義時も時房も猛反対。

「重忠には忠義があるではないですか! 鎌倉殿にもずっと忠誠を尽くしています」

しかも兄弟二人だけでなく、時政にとっても浅からぬ関係がありました。

「我々兄弟から見れば、彼は“ちえ”の婿です。父上にとっても義理の息子ではないですか。それを殺してしまえば後悔しますよ!」

かくして義時と時房は、父の前から立ち去るのですが、追いかけるようにして牧の方(りく)のきょうだいにあたる大岡時親が義時邸にやって来ました。

そして、牧の方からの言伝を二人に伝えます。

「私が義理の母だから、父の言うことに逆らうのですか?」

この一言に逆らえず、追い詰められていく義時と時房。

結果、二人は義兄弟である重忠と、甥である重保を討ち果たしたのでした。

 

姉妹三人の夫や息子ことごとく

重忠らの首を持ち帰った義時と時房は、父・時政に怒りを爆発させます。

「何が謀反だ! 畠山勢は単独で釈明に向かっていたじゃないか! 義兄弟の首を見たら、もう涙が止まらない!」

そう訴える我が子の前で、言葉を失うしかない時政。

さらに悲劇は続きます。

重忠と付き合いの深い三浦義村が行動に移したのです。

「事件に関わったのは稲毛重成の一党……斬るしかねぇ」

実は、稲毛重成の亡妻もまた、義時と時房にとっては姉妹にあたる女性であり、『鎌倉殿の13人』では“あき”として登場。

彼女の夫と甥も、今度は義村によって討ち果たされてしまったのです。

もはや何が何だかワケわからないかもしれません。

あらためて、姻戚関係で彼らを結んでいた、北条時房の姉妹(時政の娘)をまとめておきましょう。

◆ちえ・畠山重忠の妻

→息子の重保が、妹の夫である平賀朝雅と口論となり、夫と息子は、時政と牧の方の命令で誅殺される

◆りくの娘・平賀朝雅の妻

→姉の子で甥でもある畠山重保と夫が言い争い。畠山親子が殺害された後、北条政子と義時の命令を受けた山内首藤通基により、夫が誅殺される

◆あき・稲毛重成の妻

→夫と息子が三浦義村に殺害される

※名前は『鎌倉殿の13人』の設定を使用

要はこの争い、時房の目から見て、姉妹の夫と息子(甥)たちが、ことごとく殺害されていくというおぞましい結果となったのです。

姉妹の家族が蹂躙される様を見て、時房の胸には暗い思いがよぎったことでしょう。

もう、親族同士で争うなんてごめんだ……そう悟ったとしても不思議はありません。

時政はやりすぎました。

「坂東武士の鑑」である畠山重忠惨殺に怒った御家人たちは時政を見限り、代わって政子と義時が権力を掌握。

時政は中央から追われます。

この一件は【牧氏事件】とも呼ばれ、まとめると、以下のような世代交代が起きたと言えます。

◆源実朝擁立までの北条家は時政・政子・義時の三頭体制

◆牧氏事件後に政子・義時・時房の三頭体制へ

時房は、姉と兄が頼りにするに足る政治家として成長し、彼自身の存在は目立たないものの重要なサポート役を果たしていたと考えられるのです。

この後、建暦3年(1213年)には和田義盛と争う【和田合戦】に従軍。

建保7年(1219年)、源実朝が暗殺されると、時房は朝廷と後継者をめぐる交渉を担い、三寅(頼経)を迎えることになりました。

ただし、この頼経が将軍となるのは政子の死後のこと。

実質的な4代目鎌倉殿として、政子は政治を担い続けました。弟である義時と時房は、尼将軍である政子を支えたのです。

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