足利尊氏

足利尊氏/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

足利尊氏は情緒不安定なカリスマ将軍?生誕から室町幕府までの生涯

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後醍醐天皇との間にできた溝は少しずつ大きくなっていく

弟を救うための申し出だったのに理解されない――。

尊氏はしびれを切らして、位を受けることができないまま東へ向かいます。

後醍醐天皇はこれに驚き、慌てて「征東将軍」の位を与えました。

「東の蛮族を打つ権限は与えるが、幕府を作るのは許さない」という意思表示かと思われます。

このときから少しずつ、尊氏と後醍醐天皇の間に溝ができていきました。

どちらかというと尊氏は「後醍醐天皇を関東から支える」つもりだったようですが、上洛を拒んで鎌倉を本拠にしようとしたことで、「やっぱアイツ幕府作る気じゃん! すぐ潰さないと!!」と思われてしまうのです。

後醍醐天皇は新田義貞に「尊氏ブッコロ!!」(超訳)と命じ、今度は源氏同士で戦うという悲劇に陥ります。この間2年位しか経ってません……。

尊氏はこれに驚き、髪を落としてお寺にこもり、謝意を示しました。

が、既に討伐の兵は鎌倉へやって来ています。

「弟の直義が殺されそう」

「重臣の高師直もヤバそう」

そんな報を聞いた尊氏は『弟や部下が死んだら俺が生きていても意味がない』と気を取り直し、兵を挙げました。

元々その寛容さや、いざというときの肝の座りようで、部下には絶大な信頼を受けていた尊氏です。あっという間に足利軍の士気は上がり、義貞を押し返して京都へ向かいます。

後醍醐天皇は比叡山へ逃げました。

が、続いて義貞や正成の軍がやって来て敗れ、尊氏は京都から退いて西へ逃れていきます。

この間、光厳上皇(後醍醐天皇が流刑に遭っていた間に即位した天皇・125代の中には含まれていない)に連絡を取り、後醍醐天皇に逆らったことをフォローしてもらったり、政治的な試みもしていました。

西へ向かう間に光厳上皇から連絡が届き、尊氏は西国の武士をまとめることに成功。

湊川の戦いで勝利を収めて再び京都へ入りました。

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有能な君主の元、忠実な武働きを望んだのではないか?

しかしあくまで後醍醐天皇に逆らう気も、害する気もなかった尊氏。

清水寺にこんな起請文を出しています。

「この世は夢のようなものだし、私はもう世を捨てて山にでも入ってしまいたい。この世での栄誉は全て直義に与えてください」

現代人からすると「おいおい、いきなりどうした」とも思えます。

おそらくや政治の波に揉まれすぎて嫌気がさしていたのでしょう。

これまた私見ですが、尊氏は絶対的な君主の元で忠実に武働きをするのに向いていたのかもしれません。

上が頼りないからこそ、あれこれ悩んだりダイナミック逃避行&再起をしたわけで……。まあそれは、正成や義貞にもいえることですが。

尊氏はあくまで後醍醐天皇を立てるべく、和議を申し入れました。

後醍醐天皇もこれを受け入れ、光厳上皇の弟・光明天皇に譲位して、やっと尊氏vs後醍醐天皇の争いは終わります。

もし、もっと早く和議が成っていたら?

後醍醐天皇が尊氏を疑わずにいたら?

おそらくや義貞も正成も死なずに済んだ気はします。

やっぱり上司がアレだと部下の苦労がハンパない――というかこの時代だと生死に関わりますね( ̄人 ̄)

こうして丸く収まるかに見えた一件ですが、後醍醐天皇はまだ悪あがきをします。

「この前渡した神器は偽物だから、まだワシが天皇だよ~ん!!」(※イメージです)と言い張り、吉野へ逃げて南朝を作ってしまうのです。

天皇ともあろう方が、これはさすがに恥ずかしい。

一方、北朝となった光明天皇は尊氏を征夷大将軍と認め、幕府を作ることを許しました。

間もなく後醍醐天皇は亡くなりましたが、息子の後村上天皇に「北朝を絶対に許すな!」(超訳)と遺言し、この後もしばらく南朝と北朝の対立は続いていきます。

 

今度は弟・直義と史上最大の兄弟げんかへ

尊氏は弟・直義に実務を任せ、自分は名目上のリーダーとしての立場を守ろうとしました。

が、やがてこの構図は部下からの反感を買い、今度は【観応の擾乱】という悲劇に突入していきます。

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同乱によって、不本意であろう形で弟を処分することになってしまった尊氏。この後、病気がちになっていきます。

既に40代後半でしたから、寄る年波もあったでしょう。

息子の足利義詮も、この頃には仕事ができるようになっていましたので、そこからくる安堵が体を弱めたのかもしれません。

またこの後、観応の擾乱のもう一人の関係者だった、別の息子・足利直冬との戦によって矢傷を受け、そこに腫れ物ができてしまったとされています。

その腫れ物が原因で亡くなったのだとか。

傷+病気というと破傷風や敗血症が思い浮かびますが、直接死因になるような腫れ物って何でしょうね?(´・ω・`)

というわけで、尊氏一人の人生を追いかければ

鎌倉幕府打倒

南北朝時代の始まり

・室町幕府の開府

までを理解することができると思います。

なぜ歴史の授業では、そういった教え方がないんですかね。

まぁ、時間が足りないんでしょうけど、間を端折って説明すれば、そりゃあ暗記だったはかどりませんよね。

さらに戦前の足利尊氏

「後醍醐天皇に逆らった」=「無類の逆賊」

というレッテルを貼られて「日本三悪人」の一人に数えられてしまったので、サクッと終わらせたのでしょうか。

他の二人は道鏡平将門であり、いずれも「自ら天皇になろうとした」という話から、臭いものに蓋をするような存在というかなんというか……。

そういった悲運の尊氏像に惹かれる人が多いのもまた事実かもしれません。

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長月 七紀・記

【参考】
清水克行『足利尊氏と関東 (人をあるく)』(→amazon
国史大辞典
足利尊氏/Wikipedia

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