北条義時

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

史実の北条義時はどんな人物だった?62年の生涯と事績を振り返る

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北条義時
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寡夫となった稲毛重成は、妻の追善供養のために相模川に橋を作りました。

その落成式には、頼朝や義時も参加。

帰り道に頼朝が落馬して意識を失い、そのまま亡くなったといわれています。

いうまでもなく、頼朝の死は重大な出来事だったはずですが、その割には記録が乏しいため、暗殺説も根強く存在します。

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御家人たち13人の合議制

頼朝の死後、嫡男の源頼家が二代目の将軍になりました。

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義時にとっては姉の息子、つまり甥っ子にあたります。

まだ16歳と若い頼家を支えるという名目で、当時の宿老格の御家人たち十三人による合議制が生まれました。

このとき、義時もその一員に加わっています。もちろん父の時政も入っていました。

他のメンバーは以下の通り。

・大江広元
・三善康信
・中原親能
・二階堂行政

・足立遠元
・安達盛長
・八田知家
・三浦義澄

・梶原景時
・比企能員
・和田義盛
・北条時政

北条義時

最初の四人は幕府創設の要ともいえる人々です。

・大江広元
・三善康信
・中原親能
・二階堂行政

特に大江広元は源氏将軍三代に渡って仕え、官位も御家人筆頭の正五位という重鎮でした。

息子の親広は、義時の娘婿でもあり、たびたび記録上に出てきます。

大江広元/Wikipediaより引用

間の四人もまた、幕府の草創期に活躍した人々です。

・足立遠元
・安達盛長
・八田知家
・三浦義澄

保延四年(1138年)生まれの時政と同世代か、ややずれるくらいの年代の人が多いので、鎌倉幕府ができた頃には結構な年齢になっていました。

そのためか、いつの間にか記録から消えている人がいたり、同じような時期に相次いで亡くなったりしています。

次の四人は、デカすぎる共通点がありまして。

・梶原景時
・比企能員
・和田義盛
・北条時政

それは「この合議制ができた後、義時の主導で滅ぼされた」というもの。

『え? 北条時政って義時の父ちゃんだよね?』と思われるかもしれませんが、この時代の武士あるあるというか、まあそれなりの経緯があります。

さすがにブッコロしてはいませんが、政治家としての時政を終わらせたのは、子供である義時と政子でした。

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順を追って説明して参りましょう。

 

全ては御家人のボヤキから始まった

まずは、梶原景時がその地位を追われました。

景時は義経と大ゲンカした人ということで、現代においてもあまりいいイメージがないかもしれません。

しかし、それは彼が厳格な性格であり、職務に忠実だったことの裏返し。

鎌倉幕府が始まってからの景時は、侍所という役所で御家人の統率や警察の仕事をしていました。

当時は頼朝が存命中でしたから、頼朝自身が「コイツならこの仕事を任せられる」と信頼していたのでしょう。

そういう態度を取られると、御家人たちもおとなしくせざるをえません。現代の学校でいえば学級委員や風紀委員、会社で言えば監査役、お役所ならマルサなどに近いイメージの立場です。

要するに、他の人々からすると煙たい存在なわけで……その反感は、頼朝の死によって高まる一方になりました。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用

そんな中で、とあるトラブルが起きました。

頼朝が亡くなって、頼家が跡を継ぎ、十三人の合議制ができた後のことです。

結城朝光という御家人が、侍所で

「武士は二君に仕えずという。頼朝様が亡くなった時、自分も出家しておけばよかった」

とボヤいたのだそうです。

これを聞いたのが義時の妹・阿波局です。

彼女は朝光に対し「この前あなたが愚痴ってたこと、景時殿にバレてしまったみたいですよ。このままだと殺されてしまうかもしれません」と告げました。

実際には、この時点で何も決まっていなかったようですが……。日頃から恨まれているだけに、こういうときの悪い想像は飛躍します。

いつしか「景時はほんのちょっとのことでも許さないし、何かあれば御家人をすぐブッコロすに違いない! 皆でアイツを罷免に追い込もう!」という流れになってしまいます。

頼朝ならば、景時が讒言したとしても、鵜呑みにすることはありません。

しかし年若い頼家が景時の言うことを信じて、朝光を罰そうものなら、今後似たような理由で誰が処分されるかわかりません。

それを防ごうと、なんと66人もの御家人によって景時罷免の連判状が作られました。

共通の敵がいると、人間団結しやすいものですよね。

連判状は、まず大江広元に提出。この66人の中には、足立遠元安達盛長三浦義澄和田義盛といった、十三人の合議制に参加している人も含まれています。

幕府の上から下まで、景時を恨んでいる人がまんべんなくいたわけです。

 

梶原景時の変

これで困ったのは、連判状を出された大江広元です。

実際に何かが起きたわけではないながら、これほど多くの御家人が関わっているものを、握りつぶすこともできません。

結局、広元は、あまりにも御家人たちが言い立てるので、仕方なく頼家にコトの次第を報告し、連判状を提出します。

このとき、頼家は満17歳。まだまだ若いとはいえ、当時の基準では成人として扱われる年齢です。広元も頼家を大人と見ていたからこそ、最終決定を促したのでしょう。

そして頼家は、景時本人に連判状のことを伝え「こんなものが俺のところに出されたんだけど、お前から何か弁明はあるか」と尋ねます。

頼家から見ても景時は頼もしい存在だったでしょうし、言い分があれば聞くつもりだったでしょうね。

頼家の性格についてはあまり芳しい評価が残っていないものの、この件で双方の言い分を聞こうとしているあたり、全くダメダメな人というわけでもなさそうです。

しかし、景時は「これほど多くの名で連判状が作られた=自分は皆に強く恨まれている」ことを悟ったようで……何の弁明もせず、一族をまとめて領地の相模国一宮に移ります。

「見苦しい言い訳はしませんし、事を荒立てたくはないので、謹慎します」という意思表示ですね。

それでも、御家人たちの腹の虫は収まりません。

頼家だけではかばいきれず、景時は間もなく追放の処分が決定してしまいました。

職を失ってしまっては、一族を養っていくこともできません。

気の荒い人であれば、一か八かで頼家を襲うなり、御家人の誰かと刺し違えるなり、荒っぽい方法を選んだでしょう。

しかし、景時はそうしませんでした。京に出てどこかの公家に仕えようとしたのか、西へ向かったのです。

その途上で相模の武士に襲われ、景時含む一族のほぼ全てが討たれてしまったのですが……。

この一連の事件を「梶原景時の変」といいます。

正直、景時は何も悪くないというか、イメージだけでブッコロされるところまでいってしまって、実に気の毒な話。この件に北条義時らは直接関わっていない、とされています。

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しかし、コトの発端が義時の妹である阿波局だというあたりから、

「実はこのときから北条氏の陰謀が始まっていたのでは?」

とする向きもあります。

直後に、景時の口利きで御家人になった城長茂(じょう・ながもち)という人が上洛し、後鳥羽上皇に幕府追討の院宣を求めたものの失敗。

彼もまた幕府軍に討たれているのがまた、なんともキナ臭いところで……。

鎌倉時代の基本史料となる吾妻鏡は、かなり北条氏寄りの書き方をしていますので、そのあたりを差し引いて考えなければいけません。

そこがまた、この時代の難しいところです。

 

比企氏の乱

時期が少々前後しますが、頼朝の死・頼家が二代将軍になったあたりの時期は、御家人たちの世代交代が相次いだ頃でもありました。

正治元年(1199年)~建仁三年(1203年)の間に、

正治元年 足利義兼
正治二年 三浦義澄・安達盛長・岡崎義実
建仁元年 千葉常胤
建仁二年 新田義重
建仁三年 三浦義連

十三人の合議制に加わった人々も含め、こういった人々が亡くなっています。

北条氏の陰謀や天災、合戦などではなく寿命でした。生年がはっきりしていない人も多いのですが、おおむね60代後半~90歳近くだったようです。

このころ義時は40歳前後。当時の基準では、かなり高齢の域に近づいてきた頃合いでした。

ゆえに『自分の子孫のため政敵を残らず始末しておこう』なんて事を考えていたかもしれません。

次に滅ぼされたのは比企能員(ひきよしかず)。

建仁三年(1203年)【比企氏の乱】によって一族まるごと終焉を迎えます。

比企氏は、頼家の妻・若狭局の実家です。

頼家は、合議制ができる前から、将軍としての実権を奪われつつあったため、母の実家である北条氏より、比企氏に接近していました。

また、若狭局が息子を産んだことで、比企氏が次期将軍の後ろ盾になる可能性が出てきたことも、北条氏に目をつけられた理由の一つだと思われます。

時政と義時は比企氏の力が強大になる前に、手を打つことにした……というわけですね。まぁ、比企氏側の武士が政子の住まいを襲ったりしているので、どっちもどっちなんですが。

手荒なことをしてもしなくても物騒な結末になるというのは、中世のこととはいえ酷い話です。

なんでも、義時の父・時政が

「ちょっと政務上で相談したいこともあるし、以前から考えていた仏像供養を行うついでに、我が家へきてもらえないか」

と、能員にもちかけたのだそうです。

政敵の招待ですから、当然、比企氏の関係者たちは警戒し、

「普段から親密に相談をしているわけでもないのに、怪しすぎます。行かないほうがいいのではありませんか?どうしても行くというのなら、警護の兵を充分に用意していくべきです」

と能員に勧めました。

しかし能員は反対します。

「そんなことをすれば、かえって疑いが深くなる。仏事のこともあるし、本当に政務の相談をしたいのかもしれないから、平服で行ってこちらの誠意を示すべきだろう」

あまりにも潔すぎる態度で嫌な予感しかしませんね。

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