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【岡崎義実】
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彼らとは、駿河国富士川で対峙します。
ご存知、【富士川の戦い】です。
水鳥の羽音に驚いた平家が驚いて一目散に逃げた――そんな逸話で知られる戦いですが、実際はあまりに短期決戦で結着がついたことからそんなエピソードが創作されたのでは?と推察されています。
活躍したのは地元に近い武田信義です。
頼朝にとっては源氏の嫡流を名乗る目の上のたんこぶ的存在ではありながら、この勝利によって頼朝君臣の苦難は一区切りがつきます。
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このとき陣に一人の若者が馳せ参じ、頼朝への面会を希望するものの、頼朝の家臣たちによって断られます。
源義経です。
岡崎義実は“話が通じない頼朝家臣の一人”に名を連ねているのですが、いざ兄弟が対面を果たすと、義実たちはその様子を見て感動の涙を流します。
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頼朝に「水干をいただけませんか」
老齢であるためか。
実は、武功の面ではそこまで活躍譚が残されていない岡崎義実。
ただし、旗揚げの時から真っ先に従軍した将には、特別な思いがありがちで(例えば『三国志』なら劉備に従う関羽や張飛など)、義実も頼朝の挙兵時から付き従ったことが誇りとしてあったのでしょう。
そんなプライドから、思わぬ争いになったことが『吾妻鏡』に記されています。
義和元年(1181年)夏のことです。
このとき頼朝は納涼のため三浦まで遊びに行き、飲めや歌えの大宴会になりました。
イベントの主催者は三浦義澄。
三浦一族の長老格である義実は、頼朝にこうねだります。
「どうか水干(すいかん)をいただけませんか」
「いいよ。着てみたら」
義実の子・義忠は、石橋山で頼朝を庇って討死を遂げている――頼朝としては、労いの意味もあったのでしょう。この老将の申し出を快諾しました。
『鎌倉殿の13人』は衣装設定が緻密であり、この水干にも意味があります。
公式サイトから、風俗考証である佐多芳彦氏のコメントを要約させていただきます。
・水干は『吾妻鏡』で印象的に描かれている
・頼朝は必ず白い水干を着ていた
・白は汚れなき無垢の象徴
・武士身分としての正装であるという頼朝の強い意志表示
要は、現在のフォーマルスーツですね。
主君のお召し物を配下の武士が喜んで着用するというのは鎌倉時代以降でも同様の話がありますが、このときの義実もウキウキしながら水干を着てみます。
しかし、不満を言う者が現れます。
ドラマでもそういった性格を隠さなかった上総広常です。
広常と大喧嘩!甥に止められる
頼朝から水干をもらい、浮かれる岡崎義実に広常は言いました。
「そんなイケてる服は俺みたいな大物がもらうべきもんだろうがよぉ。義実のジジイごときがマジありえんぞ」
瞬間、一座は最悪の雰囲気に……。
こんなしょうもない嫌味を佐藤浩市さん扮する人物が言ってたかと思うとワクワクしますね。
むろん史実の義実も黙っちゃいません。
「アァ? おまえんとこは手柄あるからそういうこと言いたいんだろうけどな。そんなもん俺が最初に手柄を立てたことと比較になんねぇぞ! 俺と対抗できるとか調子こいてんじゃねえ!」
長老格にしてこんな調子ですから、頼朝も呆れたのか、オロオロしていたのか、無言のままで止めに入りません。
二人の諍いはどんどんヒートアップして、ついには刃傷沙汰か! というとき、三浦義澄の末弟・佐原義連(子孫が会津蘆名氏となる)がやっと止めに入ります。
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佐原義連は二人に向かって言いました。
「こんなめでたい席で何してんの! 歳とってボケたのかと思われちゃうでしょ!」
さすがに冷静になったのでしょう。広常もようやく従います。
「ったく話にならねえな。文句があるなら、あとで来やがれ」
上総広常もしょうもないですが、岡崎義実にしても、かなり年下の甥っ子に咎められるまで、主君の前でも止まらない暴走老人だったと言えるでしょう。
しかし、この一見しょーもないエピソードも、当時の坂東武者の心を理解するうえでは、貴重な話かもしれません。
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