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【源義家】
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現場から離れたところで、実態に即さない人事判断を下す朝廷。
朝廷の意に背いてでも軍を動かす武士たち。
そんな構図が見えてきますね。
日本が政治システムを参考にしていた中国では、軍の跋扈により朝廷が脅かされた苦い教訓をふまえ、文民統制(シビリアンコントロール)が徹底されていました。
しかし日本はそうではなかった――そんな歴史の分岐点が、この頃から見てとれます。
源頼義や源義家らの官軍は、中央に頼ることなく、出羽国・清原氏の援軍をキッカケに膠着していた戦線を打破し、安倍氏を撃破します。
頼義は、東国における武士たちの信頼、財力、名声を手にし、そしてその嫡子たる義家も、輝かしい青年武将として成長していったのです。
かくして康平6年(1063年)、義家は従五位下出羽守に叙任されたのでした。
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白河天皇を守る武士として
源義家はその後、越中守の任官を希望しました。
しかし願い叶わず延久2年(1070年)には下野守となっています。
出羽守としての任期を満了したのか、それとも転任となったのかは不明ながら、このころ陸奥を荒らしていた藤原基通を捕らえたことが記録されています。
承保2年(1075年)、父・頼義が88という高齢で大往生を遂げたとき、義家は37歳の壮年を迎えていました。
かくして義家は嫡流を継承します。
卓越した個人的武勇だけでなく、父から引き継いだ財力、さらには武士団を得て、名実ともに武士の頂点に立った八幡太郎義家。
承暦3年(1079年)、美濃にて源国房と源重宗が争うと、官命によりこれを追討。
さらにはその2年後の永保元年(1081年)、園城寺の悪僧を検非違使とともに追補しました。
このときは容赦なく自社を焼き討ちにしています。
義家が恐ろしい存在として知られるようになったのは、こうした寺社焼き討ちの影響もあるのでしょう。
当時は寺社を焼き討ちにしても、悪名だけが高まるわけではありませんでした。
このあと白河帝の警護をつとめ、武士を率いる義家の姿は人々の注目を集めます。
武士は天皇を守り侍るもの――そんな姿が歴史に刻まれました。
この行幸では、義家は布衣(ほい、常服)を着て、弓矢を携えています。いざという時、その方が戦いやすいという理由でした。
これも日本特有と言えるかもしれません。
比較として中国を見ますと、武器を帯びて君主の側に近寄ることは厳しく制限されていました。
剣を履いたまま近づき、悪意があれば君主を殺傷することができる。
それゆえ禁じられていたのです。
秦の始皇帝は荊軻(けいか)に暗殺されそうになった際、家臣たちの昇殿を禁じていたため、本人が応戦することとなりました。
処罰を恐れた家臣たちは「剣を背負って抜いてください!」と叫ぶことしかできなかった。
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あるいは『三国志』の英雄として知られる曹操は、異例の特権として献帝から「剣履上殿」(けんりじょうでん・剣を履いたまま昇殿すること)の特典を賜りました。
こうした中国と比較すると、布衣に弓矢を装備した源頼家の異様さがわかります。
儀礼よりも実践的なノウハウを重視し、なし崩し的にルールを変える。
こうした天皇と武士のあいまいな関係は、時代を先んじた何かの予兆を感じさせます。
後三年の役
永保3年(1083年)、源義家は陸奥守となり、再び現地へ出向くこととなりました。
そして、かつては味方だった清原氏の内紛に介入。
【後三年の役】が始まります。
この合戦は【前九年の役】とは異なります。
朝廷の追討宣旨に拠ったものではなく、陸奥守の権限により起こした戦いであり、しかも発端は清原氏同士の内紛でした。
ゆえに朝廷では、この乱を重視せず、鎮圧に乗り出した義家を冷ややかに見ていました。
いっそ朝廷が宣旨を出すなり、あるいは義家を止めるなりすれば、武士が台頭する歴史も大きく変わったかもしれません。
争い事には関わりたくないのか。中央は、消極的な態度を取っていたと思えるのです。
そのため朝廷にとっては状況は悪化します。
義家の弟である源義光までが、兄を助けるため、許可を得ずに都を離れて現地へ向かったのです。
このときの義光は
・朝廷の許可を願ったが許されないため、やむなく辞職して兄を助けに向かった
・朝廷に無断で兄を助けに行ったため、解任された
という理由とされています。
「武士が朝廷の許可を得ずに行動する」
そんな危険性は確実に育まれてゆきました。
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“私闘”とされ恩賞は無く解任
【後三年の役】が始まって4年後の寛治元年(1087年)、白河天皇が譲位。
この年、源義家は清原武衡・清原家衡に勝利をおさめ、それを朝廷に報告しました。
しかし朝廷は私戦とみなし、恩賞を与えず、さらには翌寛治2年(1088年)には陸奥守を解任し、後任を藤原基家とします。
朝廷の判断はあくまで「私闘」でした。
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