源義家

源義家/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

源義家は如何にして“特別な武士”となっていったか?武家のシンボルの生涯を辿る

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弟・義綱は引き立てられ、兄・義家は忍従の日々

源義家は、恩賞でも官位でもない、別のもっと大きな信用や崇敬を得ていました。

前九年の役】と【後三年の役】において義家のもとにいた東国の武士団、彼らはその武勇と知略に惚れ込み、伝説を語り継いでいったのです。

そうした武勇伝には、どこか聞き覚えのある人名や地名が出てきます。

例えば、わずか16歳という若さでありながら、右目を射られながらも奮戦した鎌倉景正。

彼は「鎌倉党」と呼ばれる相模一帯の武士と関わりがあったとされます。

この鎌倉景正の矢を抜こうとした三浦為次は「三浦党」の人物です。

こうした坂東武者たちが義家のもとに集まり始めました。

武芸に長けた下級貴族だけでは終わりそうにない、何か特別な存在になりつつある源義家。

坂東武者を束ねる武士の頂に立つ者――そんな輪郭が見え始めてきたのです。

しかし、朝廷がそれを警戒しないわけもありません。

朝廷と公卿の後ろ盾が盤石ではない義家は、そのことを痛感せざるを得ない状況に直面します。

当時の義家は、白河天皇の寵愛を背景に権力を得ていました。

しかし【後三年の役】による政治的窮地に際し、白河天皇は手を差し伸べるわけではありません。護衛としては重用するものの、そこに留まっていたのです。

朝廷にしても、義家の力を警戒しており、義家の弟・加茂二郎義綱をひきたて、兄弟を争わせることで牽制しようとします。

義綱を引き立てる一方で、義家の荘園を停止し財力を奪うなどの手段に出たのです。

そして寛治6年(1092年)、義綱を陸奥守に任じると、寛治7年(1093年)に出羽で平師妙・師季親子が乱が起き、翌嘉保元年(1094年)に義綱の郎党がこれを鎮圧しました。

親子の首を持って京都に入った義綱はにぎにぎしく歓迎されました。

これに対して朝廷は従四位下を与え、同時に美濃守にも任じます。

【後三年の役】における義家とはまるで異なる高待遇で、あからさまとも言えました。

 


源氏が争う苦悩の中、世を去る

承徳3年(1099年)、若くして関白・藤原師通が亡くなりました。

生前の彼は白河法皇を制御していましたが、その抑制がなくなると、新たな政治体制が始まろうとします。

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藤原師通の死は、源義家の弟である源義綱にも影を落としました。関白の庇護を失い、受領に任じられなくなったのです。

一方の義家は、白河法皇の権力と共に輝きを取り戻し始める。

承徳2年(1098年)には従四位下に叙せられ、昇殿が許されました。

しかし、晩年の義家は一転、苦悩の日々を迎えます。

康和3年(1101年)、次男であり嫡男でもあった対馬守・源義親が、任地で暴虐な振る舞いをし、あまりのことに大宰大弐・大江匡房が朝廷に訴えたのです。

しかも義家が義親召還のため派遣した官吏をも、義親は殺害してしまう。

もはや救済の手段はなく、義親は隠岐への配流が決定。

それでも反抗的だった義親を、ついには義家自身が追討せねばならないなりゆきとなりました。

しかし、父が子を追討することはありませんでした。

嘉承元年(1106年)、弟の新羅三郎義光と、義家の三男・源義国が常陸国で衝突(常陸合戦)。

親族同士が争う失意の中、同年の喜承元年(1106年)7月に義家は病気で亡くなってしまうのです。

享年68。

 


東国で得た信頼・威光は頼朝へ

嫡男の義親は天仁元年(1108年)に討伐されました。

この【源義親の乱】は平正盛が征討し、平氏の台頭と源氏の凋落を印象付けるものとなったのです。

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結果、河内源氏は三男・源義忠が継ぎました。

そしてその義忠の跡を継いだのは義親の子だった源為義ですが、こちらは【保元の乱】で崇徳上皇に味方して敗れると、自身の嫡男である源義朝に斬られました。

ご存知、源頼朝の父ですね。

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義朝の三男だった源頼朝は、父や兄とともに【平治の乱】に参戦して敗北し、伊豆へ流刑となりますが、そこで源義家の威光に助けられることとなります。

東国にはたくましい坂東武者たちがいました。

かつて彼らの信頼を得て東国で活躍した、あの源義家の子孫――その力を得て、源頼朝は天下草創に挑みます。

朝廷に手綱を握られるのではない、武士の世へ。

河内源氏の願いは、かくして叶えられていったのです。

源義家は武士の天下草創の道のみならず、悪しき先例ともなりました。

弟や我が子との闘争に彼は死の間際まで苦しめられているのです。

頼朝もまた、弟たちを手にかける血で血を争う惨劇を繰り返します。

同族同士の争いも一因となり、鎌倉幕府における源氏将軍は三代で断絶するのでした。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
安田元久『源義家 (人物叢書)』(→amazon

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