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【奥州総奉行】
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守護のいない国の留守職が留守氏となり
また、守護がいない国に任じられる「留守職」の中で、東北に任じられた人を奥州総奉行の後任とみなす向きもあります。
こちらの初代は伊沢家景という人で、元は公家の藤原氏に仕えていました。
頼朝の舅(北条政子の父)である北条時政が京都守護(後述)をやっていた頃、「お前(伊沢家景)は仕事がデキる奴だから、いっそ朝廷より幕府に仕えないか」と誘われ、はるばる東国にやってきたという、ちょっと変わった経歴を持っています。
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鎌倉ならともかく、まさか東北に行くことになるとは思っていなかったでしょうね。
上流階級ではなかったからこそ、順応性が高かったのでしょうか。
家景は現在の宮城県多賀城市を拠点とし、真面目に仕事をやって信頼を得て、三代将軍・源実朝の代まで留守職を務めました。
ちなみに、彼の子孫が後に留守氏を名乗るようになります。
まんまですが、由緒がうかがえる名字ですね。
留守氏では、伊達政宗の叔父で留守氏の養子になった留守政景が有名でしょうか。
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京都守護は最初に時政が任ぜられ、後に六波羅探題へ
鎌倉幕府は奥州だけでなく、西国にも二つの地方出張所を設けていました。
京都守護と鎮西奉行です。
京都守護は、当初、北条時政が御家人を統率して、京都の警護・裁判、朝廷と幕府の連絡役を務めていました。
時政は検非違使(京都周辺の警察)を無視するような行動もありましたし、四ヶ月程度しかこの仕事をしていませんでしたが、市民からはおおむね好評だったようです。
時政の後は、公家である一条家の人が12年二代にわたって京都守護を歴任しました。
その後は朝幕関係の悪化により、再び御家人が派遣されています。
【承久の乱】が起きたとき、より監視の役割を強めた六波羅探題に吸収される形で廃止されました。
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