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鎮西奉行は九州の御家人を統率
鎮西奉行は、頼朝が天野遠景という武士に「平家や義経派の残党が九州に隠れてるかもしれないから、見つけ次第始末よろしく」と命じたのが始まりです。
遠景は頼朝が伊豆へ配流されていた頃親しくなった古馴染みだったので、一族でなくても信頼できると考えたのでしょう。
当初は平家側だったんですが、それでも遠隔地の九州を任されたのですから、遠景への強い信頼がうかがえます。
同じくらい弟のことも信じてやれよ、と思ってしまうのは野暮ですかね。特に源範頼については。
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残党狩りが落ち着いてからの鎮西奉行は、九州全土の御家人を統率するのが仕事になりました。
九州の行政府といえば大宰府もそうですが、源平時代や鎌倉幕府の成立によって朝廷の力が衰退しており、大宰府も似たような状況でした。
そのため、鎮西奉行は大宰府に代わって行政府としての役割も持つようになります。
また、元寇の後は「鎮西探題」として、より権力が強化されました。訴訟などを扱っていた文書も残っています。
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それだけに鎌倉幕府討伐の際は、九州の御家人たちから一気に攻めかかられて滅びました。
このときの倒幕軍側には、少弐(しょうに)氏や大友氏、島津氏など、後の戦国時代でもお馴染みの名字が多々連なっています。こういう話って胸アツですよね。
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江戸時代、例外的に設置された京都所司代
とまぁ、上記に挙げたような地方行政機関は、現代でいえば(日本では実現していませんが)「道州制」に近いかと思われます。
室町幕府も似たような役職を作り、江戸幕府はほとんどこの手の部署を作っていません。
徳川家康にとっては、藩単位のほうが諸大名の支配をやりやすいと思えたからでしょうか。
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江戸時代における例外は京都所司代です。
京都所司代の設置当時は豊臣家も健在でしたので、大坂を見張るという意味もあったからでしょう。
しかし、大坂に設置するといかにも「豊臣家を監視するためにはるばる関東から来ました!!」という雰囲気になってしまいますし、朝廷や公家との折衝・監視&京都の治安維持のほうが主目的でした。
まあ、それも幕末には「もう所司代の手に負えなくなってるじゃん。新しい役職を作って、別の人に仕事してもらおう!」と言われ、京都守護職(松平容保がやってたアレ)ができるわけですが。
京都所司代は平和な間に「老中へ出世するための足がかり(それ以上でもそれ以下でもない)」という意味合いになってしまっていたので、有事への対処が難しくなっていたんですね。
当初の目的を見失うと危ういな……という見本といえるかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
日本史史料研究会『将軍・執権・連署: 鎌倉幕府権力を考える』(→amazon)
日本史史料研究会/細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(→amazon)
奥州惣奉行/wikipedia
京都守護/wikipedia
六波羅探題/wikipedia
鎮西奉行/wikipedia
鎮西探題/wikipedia