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【福原遷都と福原京】
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幕末から妓楼が発展していって
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1897年頃の福原には、913人もの娼妓がいたといいます。
この頃には彼女たちの働く妓楼はもちろん、周辺の飲食店や喫茶店も繁盛し、大規模な歓楽街となっておりました。
清盛も、まさか自分が都を作ろうとした土地がこういうことで有名になるとは思わなかったでしょうね。
明治三十九年(1906年)には、郭の半分が焼けるという大火災に遭いながら再び息を吹き返し、大正九年(1920年)になると2,200人もの女性が郭に所属する規模になっていました。
昭和初期には、洋風建築やネオンサインなども取り入れられ、別の意味でもきらびやかになっていたようです。
1958年の売春防止法で遊郭は全て廃業し、別の性産業へ変わっていったのですが……その辺については興味のある方だけお調べください。
そんな福原には金比羅宮の神戸分社が置かれています。
明治十五年(1882年)に遊郭の繁栄を祈願して作られたものだそうです。
主祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)が農業殖産・漁業航海・医薬、そして技芸を司ることから来ていると思われます。
また、大物主神は航海の神ということで、海軍軍人にも信仰されていることからか、神戸分社にも潜水艦の写真が多く奉納されているのだとか。
都に帰れなかったため金比羅宮に祀られた崇徳天皇
崇徳天皇も神戸分社の祭神です。
祟りのことは言うに及ばず、最近では安井金比羅宮のダイナミック縁切りっぷりで有名ですね。
しかし、晩年は配流先の香川にある総本宮の金比羅宮をたびたび参拝していたそうです。
生前の崇徳天皇は都に帰れなかったため、それを哀れんで金比羅宮が祀り始めたのがきっかけで、各所の金比羅宮にも祀られるようになりました。
しかし、全ての金比羅宮に必ずしも崇徳天皇が祀られているわけではありません。
にもかかわらず、神戸分社で崇徳天皇を迎えたということは「ウチの女性たちが悪い縁と繋がりませんように」という郭の主たちの願いからなのかもしれません。
逆に「ウチに来たからには、今までの縁を全て切るつもりで働いてもらうぜゲッヘッヘ」かもしれませんが。
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ちなみに、神戸分社にはもう一柱の神様が祀られています。武甕槌命(たけみかづちのみこと)という神様です。
武甕槌命は雷神・武神であり、相撲の神や「地震を起こすオオナマズを制御している」ともいわれています。……ますます遊郭とは関係なさそうなのですが、どういうことなの(´・ω・`)
何はともあれ、金比羅宮神戸分社は地元から崇敬を集め、戦災等を乗り越えて今も存在しています。
福原という町も、また何か違う姿に生まれ変わって、有名になる日が来る……かもしれませんね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
歴史群像編集部『決定版 図説・源平合戦人物伝』(→amazon)
福原京/Wikipedia
福原_(神戸市)/Wikipedia
大物主/Wikipedia
崇徳天皇/Wikipedia
タケミカヅチ/Wikipedia
金刀比羅宮(→link)