大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、地味だけど、お茶目な存在で話題となった土肥実平(どひ さねひら)。
源頼朝が「実平をいちばん頼りにしていた!」と芝居っ気たっぷりにウソをつき、涙を浮かべ二人で抱き合うなど、北条義時が唖然とするほど白々しい場面もありましたが、実はあのシーン、まんざら三谷幸喜さんのおフザケとも言い切れません。
というのも、史実での土肥実平は、石橋山の戦いで頼朝らの命を救う決断をして、その後、重用されるのです。
実に、三カ国の守護に任じられるほどで、他の有名武士に比べて現在の知名度はいささか低すぎる気もします。
では実平は、具体的にどんな働きをしたのか?
史実の土肥実平を追ってみましょう。
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伊豆に近い土肥実平の地元
土井実平の生年は不明。
もともとは桓武平氏(平高望-平良文)の流れを汲む土肥氏の出身で、相模国の土肥郷(現・神奈川県足柄下郡)に根ざしていました。
以下の地図でも一目瞭然なように、土肥郷は伊豆からかなり近いところにありますね。
彼ら一族は結束が固かったようで、治承四年(1180年)8月に源頼朝が挙兵すると、弟(土屋宗遠)や息子(小早川遠平)と共に馳せ参じました。
残念ながら、大庭景親や伊東祐親を相手にした緒戦【石橋山の戦い】では敗北してしまいますが、
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実平はなかなか冷静沈着なタイプだったようで、敗れた頼朝軍に数々の助言をしたと伝わります。
・「自害したい」と願った頼朝に正しい作法を教えた
・自害をやめて逃げることが決まったとき、頼朝に従おうとする他の武士たちに「今は分散したほうが生き残れるでしょう」と諭した
この決断が源氏や北条軍の命運を左右したといっても過言でありませんよね。
頼朝も実平の冷静さを買ったらしく、その助言に従いなら景親や祐親の軍勢から逃れ、共に安房へ渡ることができました。
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治承・寿永の乱で堅実に活躍
緒戦【石橋山の戦い】で敗れた源頼朝。
関東エリアの武士に愛想を尽かされるかと思ったらその逆で、頼朝は上総広常らの助力を得ると、治承四年(1180年)の【富士川の戦い】で鮮やかな勝利を得ます。
この一戦は武田信義の功績だったと目されていますが、頼朝にとっての勝ちは勝ち。
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同年その勢いのままに佐竹氏討伐へ出向くと、土肥実平は北条時政と共に武蔵国の武士統率を任されました。
それだけ頼朝の信頼も厚くなっていたんですね。
以下のように
・富士川の戦いの後、義経が頼朝に対面しようとしたときに実平が怪しんだ
・治承五年(1181年)1月に梶原景時を頼朝に取り次いだ
人事に関わるエピソードでも実平の名が登場します。
そうした期待に応えるように、実平はその後も源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍を重ねていきました。
年表で確認しながら、見て参りましょう。
実平にとって、大きな転機となったのは【一ノ谷の合戦】でしょう。
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というのも……。
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