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【南北朝時代】
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元寇が起きて幕府もドタバタしているうちに
話をもとに戻しまして。
このタイミングで元寇が起き、しばらくは朝廷も幕府も皇位継承問題どころではなくなります。
そして弘安の役が終わって数年後の弘安十年(1287年)、西園寺実兼の申し出で再び問題が表面化してしまうのです。
「そろそろ代替わりをしてもいいのでは? 次の治天の君は、新しい天皇のお父上である後深草上皇でいいですよね」
当然ながら、実権を持ち続けたい亀山上皇は、息子である後宇多天皇の譲位に反対します。
が、結局は伏見天皇が即位して後深草上皇の院政開始。兄弟の間で、実権が入れ替わったわけですね。
こうなると、やはり「次の皇太子をどうするか」という話になります。
後宇多上皇の皇子と、伏見天皇の皇子のどちらにするか。
意見は真っ二つに割れ、既に「後深草上皇と亀山上皇の皇子を交代交代に」という流れになりつつありましたが、原則としては、やはり親子間での皇位継承が望ましい、というのも事実でして。
このとき、西園寺実兼は自分の娘を伏見天皇の中宮にしていたこともあって、伏見天皇の皇子(後の後伏見天皇)を皇太子に強く推し、その通りになりました。
さらに、伏見天皇の弟・久明親王は鎌倉幕府の八代将軍となり、朝幕間のパイプもがっちり固まった……かに見えました。
伏見天皇の暗殺を企む事件を機に両者の仲は……
皇位は、持明院統で落ち着いたかに見えました。
しかし、そこで事件が勃発。
浅原為頼という武士とそのオトモダチが内裏に乱入、伏見天皇の暗殺を企むというトンデモナイ事態となったのです。
持明院統は当然、大覚寺統とその代表者である亀山上皇を疑いました。
亀山上皇は無関係であることを主張しますが、これをキッカケに両統の感情は悪化し続けることになります。
また、この頃は治天の君が後深草上皇から伏見天皇になっていました。
これに伴って、朝廷での立ち位置も変わってきます。
具体的には、西園寺実兼の立場がやや弱まり、京極為兼が台頭していました。
当然、実兼と為兼は対立するわけですが、ここで実兼が持明院統を離れ、大覚寺統に接近するというスゴイ(褒めてない)ことをやってのけます。
おそらくや当時の誰もが「(゚Д゚)ハァ?」となったでしょうね。
そして実兼は、節操なく、大覚寺統として動き始めます。
後宇多上皇の皇子を皇太子にし、そのまま後二条天皇として即位。
こうなると次の皇太子を持明院統・大覚寺統どちらから出すかで当然のように揉めるわけで……。
要は
「新しい天皇が即位するたびに、次の皇太子(その次の天皇)の座をお互いに争っていた」
ということです。
藤原道長みたいに「娘を入内させて孫の皇子を即位させ、その後見として実権を握る」みたいな感じだったら、割とわかりやすいのですが。
幕府はあらためて両統迭立を支持することに
幕府のほうにも、持明院統・大覚寺統の両方から「私達に味方してください!!」という要求が届きます。
しかし、どちらかだけに肩入れすると、後々に悪影響を及ぼす可能性が高くなります。
そこで、幕府は「ここは以前決めた通り、両方の系統を交代交代にしていきましょう(これを両統迭立と言います)」と返事をしました。
この時の天皇は大覚寺統なので、皇太子は持明院統から出しましょう、というわけです。
実質権力者の幕府から正式にこう言われてしまうと、朝廷もそれ以上はゴネられません。
そこで伏見上皇の皇子(後の花園天皇)が皇太子になります。
延慶元年(1308年)には後二条天皇が急死したため、花園天皇として即位しました。
このときも幕府は改めて両統迭立を支持しています。
持明院統の天皇が即位したので、次は大覚寺統から皇太子を立てましょう、というわけです。
実際、順番でいえば、ここは後二条天皇の皇子である邦良親王が皇太子になるべきところでした。が……。
当時、邦良親王が幼かったために、中継ぎとして後二条天皇の異母弟が立つことになりました。
これが後の後醍醐天皇です。
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