こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【南北朝時代】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
「文保の御和談」で余計に揉める
後醍醐天皇が即位した段階で、両統迭立(交互に治天の君が変わる)問題が発生してから三十年近くが経過。
この頃には元寇の後始末や、御家人vs御内人(みうちびと・北条家の家臣)の対立などで、幕府でも厄介事が山積しておりました。
後醍醐天皇の何がどう悪かった?そしてドタバタの南北朝動乱始まる
続きを見る
元寇「文永の役・弘安の役」は実際どんな戦いだった?神風は本当に吹いたのか
続きを見る
そのためか、花園天皇が即位して9年目に入り、大覚寺統から
「そろそろ代替わりしてもいいよね?」
という話が出たとき、鎌倉幕府は素っ気ない返事に留まります。
「今度からは幕府は介入しませんので、持明院統と大覚寺統の話し合いで継承順を決めてください」
交互に治天の君が変わる順序が半ば確定しかかっていたので、これ以上の問題は起きないと思ったのでしょうか。愛想が尽きたとかそんなまさか。
そこで、持明院統と大覚寺統の間で「文保の御和談」と呼ばれる話し合いの場が設けられます。これが残念なことに……。
結局、意見が一致せず、和談どころか破談。再び西園寺実兼が幕府に工作を行い、後醍醐天皇の即位と、同じ大覚寺統から皇太子を立てることが決まります。
これと討幕のアレコレが絡んでさらにややこしくなるのですが、その辺について今回はざっくり流させていただきます。
でないと余計わからなくなりますからね。
後醍醐天皇が始めた政治でさらに混乱
大覚寺統である後醍醐天皇は、
「鎌倉幕府の両統迭立を保つ姿勢が、天皇への権力集中の妨げになる」
と考えていました。
それを解消すべく討幕を計画します。
が、そのたびにバレ、一時は後醍醐天皇自身が隠岐に流されるほどでした。
事態がさほどに単純でなくなってきたのは、天皇方の討幕計画がポシャっても、武士の内部から討幕の機運が高まっていたからでしょう。
元寇の恩賞不足や、御内人と御家人の対立に加え、ついには地方武士などが愛想を尽かし始めます。
そしてその中には、源氏の名門として知られる足利尊氏や、その同族である新田義貞などもいました。また、楠木正成のような悪党もその流れに加わります。
足利尊氏はどんな経緯で征夷大将軍となった?ドタバタの連続だった54年の生涯
続きを見る
新田義貞が鎌倉幕府を倒しながら 後醍醐天皇に翻弄され 悲運の最期を迎えるまで
続きを見る
彼らの活躍によって鎌倉幕府は倒れました。
これを見た後醍醐天皇は【建武の新政】と呼ばれる天皇主権の政治体制を始めます。
が、あまりにも天皇に集権させようとして業務の停滞を招き、逆にあらゆる方面に反感を買って崩壊してしまいました。
また、新体制の不安定さを見て、関東では北条氏の残党が中先代の乱を起こしています。
これを見た足利尊氏は、後醍醐天皇への相談なしに関東へ向かい、中先代の乱を実力で収めて武士からの信望をさらに高めました。
デキるときの尊氏は本当にカッコイイんですよね……デキるときは(ボソッ)
新田や楠木は後醍醐天皇を支持していたが
新田義貞や楠木正成は、この間も大覚寺統の後醍醐天皇に従う動きを見せました。
持明院統にとっては苦々しい場面となりますね。
そこで後醍醐天皇方に圧されて一時九州に落ち延びていた足利尊氏を、最終的には持明院統も支持して、光明天皇を擁立。
さらに征夷大将軍の宣下を受けて、室町幕府を開くことになります。
後醍醐天皇は京を追われて吉野に逃げ延びました。
それが建武3年12月21日(1337年1月23日)のこと。
後醍醐天皇は諦めず、吉野で「自分こそ正当な天皇だ」として、南朝を開きます。
セオリー的にいうと、
・首都を奪われた
・追い出された
この時点で政治的には詰みのハズですが……。
そしてその場合、逆転を目指すのであれば、真っ先にやるべきは首都の奪還ですが……。
実は南朝方も一枚岩ではありませんでした。
少し時系列を遡りますが、楠木正成が足利尊氏との和睦を献言しても、公家などが鼻で笑って採用せず、正成が半ばヤケになって【湊川の戦い】で命を落としたことは割と知られた話です。
湊川の戦いで南北朝の勇将たちが激突!尊氏・師直・義貞・正成 それぞれの正義とは
続きを見る
他の武士も各地で敗北し、南朝の軍はあっという間に数を減らしていくのでした。
さらには中核である後醍醐天皇も暦応二年=延元四年(1339年)に崩御してしまい、南朝の大義名分が薄れ始めます。
時勢はすでに北朝で固まりつつありました。
※続きは【次のページへ】をclick!