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【南北朝時代】
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室町幕府でも盛大な兄弟喧嘩が始まってしまい
それでも、この時点で生き残っていた南朝方の武士は北朝との戦を続けます。
もはや目的と手段が入れ替わるという、戦をすることが義務や目的になってる空気すら感じられますね。
鎌倉幕府の滅亡が1333年、後醍醐天皇の崩御が1339年。たった6年の間に、これだけの混乱が起きてしまったのです。
後世から眺めている我々ですら混乱するのですから、いわんや当時をや。
しかも、です。
このあたりで、北朝に属する室町幕府でも観応の擾乱が起きてしまうのだから、更にややこしや~。
キッカケは【政務担当&副将軍状態だった尊氏の弟・直義を、室町幕府のナンバー2だった高師直(こうのもろなお)らがやっかんだ】のがそもそもの始まり。
そうなった理由は【師直たちが南朝軍を打ち破っていたため、「直義とかもういらなくない?w」(超訳)と考えた】からでした。
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この状況で内輪揉めってどうなのよ!
せめて事が片付くまでは協力すればいいのに……と思ってしまいますが、まぁ後の祭りで。
今度は新田や楠木の息子たちが大活躍
敵の混乱に乗じるのは兵法の基本。
北朝が観応の擾乱で揺れている隙を狙って、南朝方の軍が勢いづきます。
具体的には、楠木正成の息子・楠木正儀らが京都を、後醍醐天皇の皇子・宗良親王を報じる新田義貞の息子・義興と義宗が鎌倉を攻撃しました。
北朝方は京都・鎌倉を奪回したものの、南朝方が【光厳・光明・崇光の三上皇】と【三種の神器】を奪って吉野へ帰還。大打撃を北朝に与えます。
さらには、これを見た足利直義の養子・足利直冬まで南朝に寝返り、中国・九州で勢力を拡大。
解決しきらないまま、室町幕府では尊氏が病死して息子の足利義詮が将軍となる……というカオスっぷりです。
とにかくカオス!
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二代目・義詮は将軍の権威を高めつつ、南北朝の問題を解決するため、南朝方の掃討戦を計画・実行するしかありません。
と、これが決着のつかないうちに、またも幕府軍の中で内輪揉めが起き、再び京都を攻撃され……って、仲間割れ、いい加減にしぃや~(´・ω・`)
関東に目を向ければ、国人たちが関東執事・畠山国清の罷免を求めて蜂起。
これに対し、鎌倉公方(室町幕府の関東・東北統治機関のトップ)である足利基氏が要求に応じ、畠山国清を追放して、旧直義派の上杉憲顕を後任に命じます。
北の仲間割れで南もキッパリ戦をやめられず
京都では、以前から強引な面があった細川清氏が義詮に追放され、新たに斯波義将が幕府のナンバー2である執事の座に就きました。
室町幕府における「執事」とは、本来ナンバー2のことです。
が、これ以降は将軍の代理という感が強くなり、斯波義将自ら「管領」と名乗るようになります。
さすがに双方落ち着き始めたのが、貞治二年=正平十八(1362年)頃のこと。室町幕府と南朝の間で講和の動きが見え始めます。
南朝方の武将が何人か、室町幕府に帰順したことがきっかけでした。
なんでもっと早くできなかった!
後醍醐天皇薨去からここまでの動きを乱暴にまとめると
北朝:外の問題が片付いてないのに仲間割れして問題を量産する
南朝:北朝がgdgd過ぎて降伏する気にならないので戦をやめない(やめられない?)
みたいな感じです。ホントに。
なお、これに終止符を打つのが、室町幕府三代将軍・足利義満です。
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