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【梶原景時】
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義経の死
頼朝が共通の敵になった義経と行家。
二人は一応協力体制をとりますが、都を出た後は散り散りになります。
その後、行家は和泉に潜伏するのですが、文治二年(1186年)5月、地元民が鎌倉方に居場所を密告し、北条時政の親戚とされる北条時定に捕らえられ、斬首となりました。
院宣を得た義経は、結局、兵は集まらず、京を落ちて奥州平泉の藤原秀衡のもとへ逃れます。
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もう、ここまで来れば皆まで言うな状態かもしれませんが、続けましょう。
庇護者だった秀衡が文治五年(1189年)に亡くなると、跡を継いだ藤原泰衡が頼朝の圧迫に負け、義経一行に襲いかかりました。
義経最期の合戦【衣川の戦い】。
義経は妻子と共に自害し、武蔵坊弁慶がそれを守って立ち往生したというのはあまりにも有名です。
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討たれた義経の首は酒に浸して鎌倉へ届けられ、梶原景時や和田義盛らが検分を務めました。
二人をはじめ、居合わせた多くの者が涙したといいます。
ついていけないと思いつつも、義経の才能を惜しむ気持ちはあったのでしょう。
ただし、幕府が落ち着いた後も、義経の能力が有効利用できたかどうかは疑問です。
武辺一辺倒の人物が戦のない時代に生き残るのは至難の業。
わずか一回の発言で謀反を疑われ、攻め殺された範頼の例もありますし、仮に義経が生きていたとしたら、頼朝の長男・源頼家や北条氏と対立して、政権を追われたのではないでしょうか。
人望失う景時の讒言
なお、景時に讒言されたという人物は、他に夜須行宗(やす ゆきむね)と畠山重忠がいます。
夜須行宗は土佐の武士で、かつて頼朝の同母弟・源希義(みなもとのまれよし)を庇護しようとしていた人です。
平家方に察知されて希義は討ち取られてしまいましたが、行宗はそのまま源氏方につきました。
そして壇ノ浦の戦いに参加し、武功を上げたため、恩賞を願い出たのですが……そのとき景時はこんなことを言ってしまったとか。
「夜須という武士の名を聞いたことがない! でたらめを言って恩賞を得ようとするなどもってのほか!」
結果、両者の間で訴訟が起き、行宗の功績に対する証人が出てきたため、景時の負けとなりました。
その罰として、景時には鎌倉の道路普請が命じられています。
日頃の景時の言動からすると「記録や証人がないのに武功を言い立てる者は信用できない」という考えだったのでしょう。
もう一人、畠山重忠について。
重忠は武蔵の武士で、元は平家方についていた人です。
頼朝が一旦安房に逃れてから鎌倉へ向かうまでの間に源氏へ降伏したとされ、以降は忠実に頼朝へ仕えて、治承・寿永の乱(一連の源平合戦のこと)でも活躍しました。
一ノ谷の戦いでは義経の麾下に入り、鵯越の逆落としでは「大切な馬に大怪我をさせるわけにはいかない」として、自分が馬を背負って駆け下りたという逸話が有名な方です。
さすがに現実的ではないですが、重忠が剛力で知られた武士だったことは間違いないでしょう。
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その重忠が地頭を務めていたところで、彼の代官が狼藉を働くという事件がありました。
武勇を惜しんだ頼朝が、一度はこれを赦すのですが、重忠が地元へ戻ると景時の疑惑癖がむくむくと起き上がります。
「重忠は、鎌倉に対して謀反の支度をするつもりでは?」
さすがに即手打ちとはならず、頼朝が他の重臣たちも集めて対応を協議。
すると小山朝政が使者の派遣を進言します。
小山朝政は頼朝の乳母・寒河尼(さむかわのあま)を後室に迎えており、挙兵当時から源氏で、頼朝にとっては身内同然の武将でした。
そこで朝政の一門である下河辺行平(しもこうべゆきひら)が使者に立ち、旧知の仲だった重忠に話しかけます。
二心のない人物にとって謀反の疑いほど心外なことはなく、事の次第を知った重忠は大いに悲しみ、自害までしかけたといいます。
行平がそれを何とか押し留め、「やましいところがないのなら、鎌倉で堂々と申し開きをしたほうがいいでしょう」と勧めました。
そこで重忠は鎌倉へやってきたのですが……取り調べを担当した景時は、まだ疑いの念が消えていません。
「起請文を出されよ」
「自分には二心がないので、起請文を出す必要はない」
この報告を受けた頼朝は何も言わず、重忠と行平に褒美を与えて帰したとか。
結果、他の御家人から「人望に嫉妬して陥れようとした」と噂され、景時の人気を下げる一因になったといいます。
この二つの話から伺えるのは、景時が書面や記録を非常に重視していたことでしょう。
良くも悪くもお役所仕事と言えるかもしれませんが、当時の武士は読み書きができない者が大多数。
むしろ景時が異端でしたから、価値観の差がそのまま不信感に転化してしまったとも考えられます。
頼朝にも気に入られた和歌の才
風変わりなところでは、梶原景時の和歌の才に関する逸話もあります。
奥州合戦のときのことです。
現代の地名では仙台市と名取市の間を通って太平洋に注ぐ「名取川」。
当時は歌枕として有名な場所の一つであり、壬生忠岑や西行なども題材に用いています。
ここで頼朝が
我ひとり 今日の軍に 名取川
と詠み、景時に下の句をつけるよう命じました。
すると
君もろともに 徒(かち)わたりせん
と返事をしたのだそうです。
続けると
我ひとり 今日の軍に 名取川 君もろともに 徒(かち)わたりせん
となります。
意訳するとすればこんな感じでしょうか。
【意訳】今日の戦は私一人で来たが、勝った暁には君とここを歩いて渡りたいものだ
名取川は恋歌にもよく詠まれていますし、「名を取る」=「恋をしていることが世間に知れ渡ってしまう」ことの暗喩でもあります。
また、戦の道中で詠んだことを考えると、おそらく「徒(歩く)」と「勝ち」をかけているのでしょう。
ちなみに、名取川の名はアイヌ語の「ナイトリベツ(渓谷)」あるいは「ニットリトン(静かな海)」由来と考えられており、恋はあまり関係ないようです。
和歌を読むというのは、他の御家人にはなかなかできないことの一つであり、頼朝からの信頼は上々。
息子たちも同様に頼朝と和歌に興じていて、景時が他の坂東武者からやっかみを買う理由の一つになったかもしれません。
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建久元年(1190年)にも和歌に関するエピソードがあります。
頼朝が初めて上洛した際に景時もお供の一員を務め、道中、橋本(静岡県浜名郡新居町浜名)に立ち寄ったときのことです。
当時ここには宿場町があり、頼朝一行がやってくると遊女たちが集まってきました。
宴ついでに頼朝は連歌会を催し、自ら上の句を詠みました。
橋本の 君には何を 渡すべき
これに景時が下の句をつけます。
ただそまかわの 暮れて過ぎばや
続けると
橋本の 君には何を 渡すべき ただそまかわの 暮れて過ぎばや
下の句がちょっとわかりづらいですが、意訳してみますと……。
【意訳】橋本の遊女たちに何を贈るべきか迷ってしまうな、早く決めて川を渡らないと日が暮れてしまう
景時が頼朝を少し嗜めていたのか、それとも迷う様を少し面白がっていたのか、どちらにでもとれる詠みぶりのように感じられます。
上洛の話に及んだので、そのまま頼朝と過ごした京都滞在時に注目してみましょう。
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