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【日宋貿易】
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日宋貿易の時代へ
平安時代が末期に向かう中、荘園制度に依拠した日本の経済は限界を迎えつつありました。
そこで平清盛が目を向けたのが海の向こうの大陸。
博多津(現・福岡市)に来航している宋船を、京都に近い福原(現・神戸市)に来航させることにしたのです。
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清盛は、強風に耐えられるだけの人工島を作り、日宋貿易を実現させます。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、平清盛が宋人から満足そうに荷物を受け取る場面がありました。
では、唐から宋になり、日本には何がもたらされたのか?
『鎌倉殿の13人』に特徴的なワンシーンがありました。
後白河法皇の手紙からふわっと香ってくるいい匂いに、大興奮する三浦義澄と北条時政。
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京都の貴人たちは、宋から届く香料を使っていたのです。
日宋貿易で輸入された品目をざっとまとめてみましょう。
【日宋貿易の輸入品】
・香料および薬品
・陶磁器
・織物
・書籍
・絵画、書等の美術品
・宋銭
漢方医学で用いる薬品や繊細な陶磁器、あるいは美しい布地など、魅惑的な文物が宋から続々と流入。
『鎌倉殿の13人』においても、京都の人々が着ている服の質感は坂東の人々とは異なり、例えば鎌倉から上洛した北条政子(小池栄子さん)や大姫(南沙良さん)が、京都の丹後局(鈴木京香さん)にボロカスに馬鹿にされるシーンもありましたね。
北条義時たちが木簡で米の産出量を計算する一方、京都の人々は紙に筆で文字を書きました。
その手本となる書だって宋が本場です。
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莫大な利益を産んだ宋銭
しかし日宋貿易における最大の輸入品は上記の品目にはありません。
宋銭です。
日本でも8世紀に中国を手本として和同開珎が作られますが、程なくしてそれが途切れると、秀吉時代に金銀貨幣が作られるまで、日本では貨幣が作られなかったのです。
それを流通させるのですから、これはもう入手した時点で莫大な利益となります。
『鎌倉殿の13人』では、宋との貿易に夢中だった平清盛が源頼朝のことをあっさりと忘れるシーンもありました。
輸入=莫大な利益となるのですから、それも致し方ないことだったでしょう。
2011年大河ドラマ『平清盛』では、主役である清盛の先進性の象徴として、宋との繋がりが強調されていました。
しかし今振り返ってみますと、皮肉にもこの作品は平家の限界を象徴するようでもありました。
2つの例を挙げたいと思います。
・平清盛が宋剣を愛用している
同作品では、平清盛が宋剣を装備していました。
これは設定としていただけません。
宋銭を輸入する一方、日本からは金、銀、水銀、硫黄、刀剣、木材、漆器などが輸出されました。
日本の武器は宋で人気が高かったのです。
いわば日本刀は自国が誇るブランド品の一つであり、そこで宋の刀剣を愛用していれば「なぜアナタは日本刀を使わない?」と信頼問題にもなってきましょう。
トヨタの社長がGMやBMWに乗っていたら、違和感ありませんか?
・清盛が源義朝と一騎討ちしてしまう
ドラマの見どころを指摘するのも野暮ですが……。
中国から『孫子』でも買い取って熟読していたら、こういう無茶振りはしません。
『孫子』の愛読者である曹操は「個人的武勇の自慢は、将のすることではない」と断言しています。むしろ恥ずかしいことなのです。
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宋とのつながりを強調して、清浄歓喜団(せいじょうかんきだん・現在も販売されている菓子)や船を作ることは素晴らしい挑戦でした。
しかし、輸出品目の特性や兵法軽視はいただけません。
もっとも平家に限界があったからこそ源氏が勝利するわけで、それも仕方のないことではあったのでしょう。
平家とその都である福原は短命に終わり、時代は鎌倉へと移ってゆきます。
鎌倉幕府と宋
では平家を倒した源氏は、宋との交易をやめたのか?
中国の影響は消え去ったのか?
そんなことはありません。
『吾妻鏡』では、北条政子の死に際し、こう記しています。
前漢の呂后に同じく、天下を執行せしめ給う。
前漢の呂后は、夫である太祖・劉邦の愛した戚夫人を惨殺し、政子の【亀の前騒動】どころではない猛烈さがあったとされています。
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彼女らは悪女とされる点でも共通していると指摘されがちですが、ここでの記述は決して貶しているわけではありません。
呂后には政治手腕がありました。
政子もそう。
『吾妻鏡』では二人を褒め称える文脈で伝えています。
呂后にせよ、彼女と並んで悪女とされる武則天にせよ、統治能力は優れていました。
唐は中国史上においても女性の行動が自由であり、強い時代であったと評されます。
この傾向は唐周辺の国家にも及び、新羅では善徳女王が国を治めました(在位632年-647年)。
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