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【郷御前】
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義経の正室として娘と共に奥州へ
『鎌倉殿の13人』においては、あまりに奔放で、人の気持ちに無頓着な義経――。
そんな義経が甘えることができ、話相手となる郷御前という妻を得たことで、彼の人格や行動が変わることは予測できます。
しかし同時に、あの奔放な性格は史実準拠であり、根本から変わることはない。
義経は、兄の命により上洛したにも関わらず、その神経を逆撫でするようなことをしました。
例えば【壇ノ浦の戦い】において平時忠を捕らえた義経。
この時忠を義経は京都に留め置いています。
理由は、時忠の娘である蕨姫という女性を側室としたからとされております。
これは一体どういうことなのか。
比企氏の顔に泥を塗るような行為であり、平家に通じているとみなされてもおかしくない愚行です。
さらには、勝手な振る舞いや、任官など、義経は頼朝の怒りを買うような行動を繰り返します。
そして、鎌倉入りすら拒まれてしまうほど頼朝との関係は悪化。
比企一族と郷御前にとって、義経は輝かしい御曹司どころか、災厄と化してしまうのです。
郷の父・河越重頼は、義経の舅であることから所領を没収され、誅殺されました。
それでも郷御前は妻として義経に寄り添い続けました。
生まれたばかりの娘と共に陸奥まで付き添っています。
そして【奥州合戦】の最中、娘ともども最期のときを迎えます。
それが文治5年(1189年)閏4月30日のこと。
藤原秀衡の息子である藤原泰衡に裏切られた義経は、妻子と共に衣川館持仏堂に入り、郷御前と4歳の娘を殺すと、自らも命を絶ったのです。
義経の享年31。
一方、郷御前は享年22であったと伝わります。
郷御前は、比企氏の娘ではなく、義経の妻として生きました。
そして比企氏も建仁3年(1203年)、比企能員の変により滅びるのでした。
共に生き、散ったことが彼女の個性
あまりに健気で哀れ。それが郷という女性――この性格そのものが彼女の個性と言えます。
当時の女性はもっとタフでした。
「貞女は二夫に見(まみ)えず」という儒教規範は根付いていません。
『鎌倉殿の13人』では、夫の江間次郎を失っても生き続ける八重が描かれています。
これが後世になると評価は変わります。
夫の死後に出家もせず、生きていることそのものが不貞とみなされていてもおかしくない。
北条時政の妻・牧の方(りく)は、夫の死後、京都で悠々自適の暮らしを送っていたという話も残されていますが、それは流石に当時から厚かましいと思われていた様子がうかがえます。
郷御前と同じ比企氏出身で、北条義時の正室となった女性・姫の前(比奈)がいます。
彼女は比企氏の没落後、義時と離縁させられました。
それでも別の男性に嫁いでいます。
義時がベタ惚れだった姫の前(比奈)北条と比企の争いにより引き裂かれた二人
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こうした女性たちと比較すると、郷御前は夫から離れようとしなかったのだから、際立った健気さがあります。
しかも義経は彼女だけを愛したわけでもなく、静御前との熱愛が有名であり、蕨姫もいました。
さらには真偽不明ながら、日本各地で義経に愛された姫の伝説が残されています。
自分以外の女に対して愛をふりまき、破滅に向かう夫。
そして追い込まれた末に三浦透子さん演じる里を刺す――夫以上に悲劇的な最期は、視聴者の心を深く抉ったのでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
他