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【北条高時】
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病気を理由に出家って……
安藤氏の内紛については、幕府もほうっておくわけに行かず、北条氏によって裁きが下されることになります。
この時点で、実権を握っていたのは御内人筆頭の長崎高資。
彼が真面目に仕事をしてくれればよかったのですけれども、なんと高資は、又太郎と五郎三郎の両方から賄賂を受け取るというウルトラCの手腕(笑えない)を披露してくれました。
当然のことながら余計に話がこじれ、蝦夷の蜂起は勢いを増すばかり。代官をすげ替えても自体は収まらず、何年も戦が続きました。
幕府から宇都宮高貞などが差し向けられ、事がやっと収まったのは、実に嘉暦三年(1328年)のこと。
鎌倉幕府が倒れる、わずか五年前です。
史料が少ないこともあって、この時代の蝦夷のことはほとんど語られません。
しかし、そもそも幕府とは、東国を支配する名前を冠した征夷大将軍がトップの組織です。
それが蝦夷の人々や彼らの住まう地域を治められない……というのは、かなりマズイ事態のはずでした。
公家の日記に、乱のことを記したものがなさそうなので、上方にはあまり伝わっていなかったのかもしれません。
が、数代に渡る頻繁な執権職交代とやる気のなさ、御内人の専横ぶりは目に余ったことでしょう。
しかもです。
肝心の北条高時が、病気を理由に出家してしまっていました。
それが嘉暦元年(1326年)。1322年頃に始まった蝦夷の乱が、まだまだ治まる前のことです。
ついでにいうと、京都では大覚寺統・持明院統のどちらが皇位を継ぐかで揉めに揉め、幕府にも意見を尋ねる使者が来ていた頃です。
このタイミングでの出家となると、
「ワタシに乱や皇位継承問題をまとめる力はありましぇーん! 責任を取るつもりも(ry」
と言っているも同然。
小さい頃から病がちではあったようですが、ここまでの間に大病をしたという記録もないので、風邪をひきやすい・こじらせやすいタイプみたいな感じだったんですかね。
突然の出家だったため、定番のお家騒動起きる
さらに厄介なことも起きています。
高時が23歳の若さで出家してしまったため、後継者を巡って騒動が起こるのです。
長崎氏が高時の息子・北条邦時を推し、安達氏は高時の弟・北条泰家を推挙。どちらもすぐには引っ込まず、結果【嘉暦の騒動】というお家騒動に発展しました。
高時の息子・邦時は、この時点でまだ生後一年にも満たない乳幼児だったんですけどね。
清州会議で豊臣秀吉が担ぎ上げたときの三法師(織田秀信)が数えで3才ですから、それよりも若い。
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安達氏のプッシュした泰家は、生年は不明ながら、少なくとも20代にはなっていたと思われます。
さすがに長崎氏も邦時をすぐ執権にしろとはいわず、連署を務めていた北条貞顕を中継ぎとして推していました。
彼は、北条実時(北条時宗の師)の息子であり、連署=執権の女房役を務めていたため、実務能力なども考えると最適な人物と言えるかもしれません。
そして貞顕が中継ぎの十五代執権になることが決まったのですが、嫡流を自認する泰家はこれに不満タラタラ。
「あんな傍流のヤツに執権職を奪われるとは一生の恥! こうなったら出家してやる!!」(超訳)
そうして頭を丸めてしまうのです。
しかも、側の人々が続いたものですから、さあ大変……。
一時は「泰家は腹の虫が収まらず、貞顕を(ピー)しようとしている」という噂まで流れたといいます。
「気に入らないからブッコロス」って、それ一番やっちゃいけないパターンやで(というか、鎌倉時代にはこれが何度も……)。
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