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【北条高時】
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あっちこっちで執権職がたらい回し
そんなこんなで何だかあやふやに大人扱いされるようになった高時でしたが、ゆっくりもしていられませんでした。
応長元年(1311年)、父・貞時が亡くなったのです。
家督を継いで九代得宗(北条氏本家の当主)になったのとはいえ、年齢は満8歳。執権という重職を遂行するのは、とてもじゃないけど不可能です。
亡き父・貞時は、正安三年(1301年)に一応執権職は退いておりましたが、高時の成長を待ちながら、親戚のあっちこっちで執権職をたらい回しにしておりました。
中には、貞時と政治的に敵対していた人もいたほどです。
まぁ、この頃は、御内人の権力が強い時期でもあったので、執権職であっても将軍同様に形骸化しつつあったのですが……。
北条貞時記事でも触れましたが、
北条貞時と永仁の徳政令~戦乱で凹んだ御家人を借金チャラで救えるか
続きを見る
彼は今際の際に、御内人・長崎円喜(ながさきえんき)や、御家人・安達時顕(あだちときあき)など、代表格の配下に対し、
「高時を守り立ててくれ」
というようなことを言い遺して亡くなったといわれています。
もしかしたら執権についてはどうでもよく、息子が無事に育つことだけを考えていたのかもしれません。
せめて健康に育てば、後は本人の頭脳と後ろ盾次第で、どうとでもなりますからね。
政務より仏教に興味あり!?
父の死後5年が経った正和五年(1316年)、高時はようやく十四代執権となりました。
①北条時政(1203-1205年)
②北条義時(1205-1224年)
③北条泰時(1224-1242年)
④北条経時(1242-1246年)
⑤北条時頼(1246-1256年)
⑥北条長時(1256-1264年)
⑦北条政村(1264-1268年)
⑧北条時宗(1268-1284年)
⑨北条貞時(1284-1301年)父
⑩北条師時(1301-1311年)たらい回し始
⑪北条宗宣(1311-1312年)
⑫北条煕時(1312-1315年)
⑬北条基時(1315-1316年)たらい回し終
⑭北条高時(1316-1326年)←今日の主役
⑮北条貞顕(1326-1326年)
⑯北条守時(1326-1333年)
※( )内は在職期間です
この頃には御内人も世代交代しており、円喜の嫡男・長崎高資(たかすけ)が中心となって政務を行っていました。
中継ぎだった三人の執権が御内人に押されてしまっていたのを見て育ったためか、高時はあまり政務に興味を持たなかったようです。
高資が頼りになりすぎたんですかね。
その代わり……といっていいのかどうかビミョーですが、高時には仏僧との逸話がいくつか伝わっています。
例えば、日蓮の弟子・日朗に「ウチで他の宗派と問答してみろ」と命じ、【鎌倉殿中問答】を執り行いました。
日朗もこの時点で73歳という高齢だったため、その弟子の日印に任せられてます。
他宗派を攻めて鎌倉幕府に叱られ元寇を予言!なぜ日蓮はああも攻撃的だったのか?
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問答は文保二年(1318年)12月から、元応元年(1319年)9月までという、なかなかの長期間にわたって実施。
最終的に、日印が他宗派の僧侶をことごとく論破したため、鎌倉幕府は日蓮宗の布教を公的に認めたといわれています。
ちょっと前までは日蓮やその弟子たちが流罪になっていたのですから、かなりの躍進ぶりです。
この問答の記録は、日印の弟子・日静(にちじょう)がつけていました。
他の記録にこの問答のことが記述されていないというあたりに、少々怪しさも漂いますが……。
まあ、鎌倉幕府自体の記録がテキトーになっていた頃ですから、他の記録が乏しくても仕方のないところではあります。
日蓮宗にとっては、自分たちの宗旨をアピールしたり、後世に「だからウチはスゴイし正しいんだよ!」と伝える一代チャンスだったでしょうから、きちんと記録するのも当然ですね。
東北で安藤氏の乱が勃発
一方で、物騒な出来事もありました。
元亨二年(1322年)頃に【安藤氏の乱】あるいは【蝦夷大乱】と呼ばれる戦が東北で起きていたのです。
遡るほど半世紀近く前の文永五年(1268年)、津軽の地で代官の安藤氏がブッコロされました。
年号を見てお察しの通り、日本が元の驚異に晒されていた頃。やはり記録が乏しく詳細は不明ながら、北方へも元から何らかの圧迫が加えてられていたようです。
しかし、蝦夷(えぞ)と呼ばれる東北~北海道の人々には、鎌倉幕府の事情や元=モンゴルの驚異についての情報などほとんどありません。
それなのに、代官が「なんかヤベーことになりそうだから、戦のために税をもっと払え!」と言われたそうで。
蝦夷の人々がブチ切れ、安藤氏を襲撃した……というところのようです。
まぁ、そりゃ、いきなり税を要求されてもワケワカメですしね。
また、文保二年(1318年)あたりには、代官である安藤又太郎と、いとこの安藤五郎三郎の対立が激化、さらに出羽で蝦夷が蜂起するという、上も下もドッタンバッタン大騒ぎ(マイルドな表現)状態になりました。
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