北条高時

北条高時/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

鎌倉幕府の滅亡!北条高時の最期は「腹切りやぐら」で一族ほぼ自害の悲劇

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鎌倉のドタバタに乗じ京都でも倒幕計画

貞顕は身の危険を感じ、自ら執権辞任と出家を長崎氏に申し出。あっさり許可が出て、貞顕はわずか10日で執権職から退いています。

ですが、出家した泰家が返り咲くというのも不格好な話ではあります。

血筋の近い順に候補者が政界から去ってしまったせいで、中継ぎ役にすら困る状態になってしまいました。

逡巡の末、引付衆(裁判担当の人たち・出世コースでもあった)の筆頭だった北条守時が適任と考えられ、十六代執権に決まります。

彼は第六代執権・北条長時のひ孫で、一族内での序列も高かったため、やっと騒動は収まりました。

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ついでにいうと、高時が出家&引退する二年前の元亨四年(1324年)に、京都で【正中の変】という討幕計画騒ぎが起きていました。

簡単にいうと「後醍醐天皇鎌倉幕府を倒す計画を立てていたが、事前に幕府側にバレ、首謀者が処分された」という事件です。

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このときは事前に六波羅探題が察知し、討幕軍に加わるべく密かに上洛していた武士を討てたので、後醍醐天皇自身への処罰はありませんでした。

しかし、そんな計画が立てられる事自体、幕府が揺らいでいる証拠でもあります。

後醍醐天皇は「中継ぎ」としての役割しか期待されていなかったため、宮中からも幕府からも「早く退位してくださいよ^^」(※イメージです)と圧迫されており、対抗しようとした……なんて理由もありますが。

 


新田義貞に攻め込まれ一族ほとんど自害する

もはや止められなくなった時代の変化。

元弘元年(1331年)には、楠木正成が後醍醐天皇について挙兵しました。

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さすがにこのときは幕府も、後醍醐天皇の強い関与を疑い、隠岐島への流罪にします。

が、タフな後醍醐天皇は、一年もせずに脱走。

西国での討幕勢力はとどまるところを知らず、討幕軍を防ぐために派遣した足利尊氏(高氏)に寝返られ、新田義貞に鎌倉へ攻め込まれ、高時をはじめとした北条一族のほとんどが自害することになってしまうのです、アワワワワ。

その場所は、現代に至るまで「腹切りやぐら」として伝えられています。

東勝寺跡奧にある腹切りやぐら/photo by Tarourashima wikipediaより引用

どうしてこうなった\(^o^)/

と、冷静に考えてみますと、「高時が大人になってからもマトモに仕事しようとしなかったため、幕府の寿命が縮んだ」と言えなくもないでしょう。

ただ……太平記では「北条氏に従って殉死した者が6000人あまりいた」と書いておりまして。

例によって盛られた数字である可能性が高いものの「末期の北条氏にも、死出の供をしてくれる家臣が多々いた」というところは、後世の我々も認識して良いのではないでしょうか。

まぁ「生き延びたところで落ち武者狩りに遭うか、処刑されるかのどっちかだから、その前に自ら死を選んだ」という人もいたでしょうけど。

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後醍醐天皇が尊氏に命じて宝戒寺を建立

何度も討幕を邪魔された割に、最後はあっさり倒幕

その後、後醍醐天皇は尊氏に命じて、腹切りやぐら(東勝寺跡付近)の近くに「宝戒寺」というお寺を作らせています。

高時らの供養のためで、この場所は初代執権・北条義時以来、北条氏の屋敷があった場所でした。

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地図を見ていただくとわかりやすいかと思うのですが、ここから腹切りやぐらまではほんの5分程度の距離です(以下の地図、上から鶴岡八幡宮→宝戒寺→東勝寺跡)。

鎌倉が義貞の軍によって攻略されたとき、高時と北条一族はこの道をどんな面持ちで歩いていたのでしょう。

当時に思いを馳せたい方は、以下の記事に鎌倉観光をまとめましたので、よろしければ併せてご覧ください。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
日本史史料研究会/細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(→amazon
北条高時/wikipedia

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